満ソ国境紛争1/乾岔子島事件、張鼓峰事件等 概説1
満州とソ連の国境線はかつて帝政ロシア時代、清国との間に結ばれた愛琿条約や琿春条約によって定められたままで、細部は不明確であった。そのため国境をこえて自由に往来している部落は少なくなく、特に東部国境の東寧、琿春方面はその傾向が強かった。支那は古来中華思想からして自己と対等にならぶ国の存在を認める思想はない。すなわち支那には国境の概念はうすく、支那とソ連が隣接している限り国境の不明確さは紛争を繰り返したとしても余り神経質となる問題ではなかったと思われた。 ところが辛亥革命に際し独立を宣言した蒙古帝国(のちモンゴル共和国=外蒙)を新生ソビエト政権が衛星国化し、一方で満州国が誕生、その国防を日本が担うこととなると、日ソ間の勢力は直接接触することになった。両国は日露戦争、シベリア出兵以来の対立感情と、ソ連の伝統的南侵政策とがあいまって、双方とも国境の防備を強化し互いに自国に有利なように国境線を主張して譲らず、昭和10、11年の二年間の紛争は328回の多数にのぼり、規模、激烈度を増していた。 |
満ソ国境紛争1−1 | :満州事変後の国際情勢判断、紛争解決のための努力、続発する国境紛争 など |
満ソ国境紛争1−2 | :乾岔子島事件、張鼓峰事件、事件の教訓 など |
米国は、当時その豊富な経済力をもって支那大陸に着眼し、機会均等、門戸解放の名の下に、しきりに市場を求めようとしていた。日本が支那を武力によって制圧することを極度に恐れていたので、我が国の真意が了解できれば、必ずしも直ちに我に対して実力発動は行わぬものと判断した。 英国も、支那における既得権を喪失することを懸念するとともに、日本の経済進出に著しく神経質となっていたが、わが政策が宜しきを得れば、実力に訴えてまで解決せねばならない緊迫した問題はありえないものとした。 また支那に対しては、積年の懸案が山積しているが、支那の抗日には多分に国内の統一に利用とする内政的見地に起因するものがあり、その反面、親日勢力もまた相当根強い素地があるので、この際思い切った施策の如何では、日支親善もまた必ずしも不可能ではない。従来の我が国の外交が専ら米英の鼻息をうかがう「軟弱政策」に終始している実情をみて、支那は、日本くみしやすいとの軽侮の念によるものが大きい。日本が敢然として公明な世界政策を表明し、これを強力に推進するならば、少なくとも従来の排日侮日の空気が自然と解消し逐次日本に対する尊敬の念に変えさせ得るものと考えた。 この際もっとも厄介なのはソ連であった。共産革命によってその政体は一変したものの、その対外政策は帝政当時を踏襲し、依然その指向は東漸南下にある。その推進力たる極東赤軍はいまや飛躍的に強化され、明治44年に独立した蒙古帝国は早くもその侵略を蒙り、ソ連政府の介入によってモンゴル共和国(以下外蒙古)として共産化が進められていた。我が国との間にも、石油問題や漁業問題など幾多の危機をはらむ難事件が山積していた。昭和8年6月時点で我が国が最も危険を感ずるのはソ連であることは明白であった。一部には支那問題を処理した後にソ連に当れ、とする意見もあったが、
@ ソ連一国を目標とする国防すら困難が予想されるのに、支那をも敵とすることは極力避けるべきである。 という意見が圧倒的であった。特にこれを強く主張したのが参謀本部第3部長・小畑敏四郎少将であった。 こうして当時予想された1935、36年危機に対する我が陸軍の大方針は、積極的対ソ処理は考えず、あくまで対ソ自衛に重点をおき、その戦力の整備を急ぐことに最終的決定をみたのである。
|
||||||||||||||||||||||||||||||
昭和6年に満州事変が勃発したとき、ソ連は第一次五ヶ年計画の最中であり国内の政情も不安定だったため、日本に対しても過激な態度には出られないでいた。しかし日本が満州国と共同防衛条約を結ぶと、ソ連も外蒙古と同様の相互軍事援助条約(昭和9年10月 当初は口頭による)を結び、また満州国が国境開発を兼ねて軍事鉄道の建設に着手するとソ連はシベリア鉄道の複線化工事に着手するなど、極東の動向をにらみながらシベリア開発に全力を注いだ。しかも昭和7年から極東軍備の大規模拡張をはじめ、支那事変当時の兵力はすでに在満日本軍の4倍にも達し、とくに沿海州に進出した渡洋重爆撃機や潜水艦は、日本に対する無言の圧力となっていた。 これらの情勢に鑑み、日本は在満兵力を少なくとも極東ソ連軍の7〜8割程度まで増強しなければならぬと考え、昭和11年ごろから大々的に満州兵備の拡充に着手しようとした。しかし、そこへ支那事変が勃発したためその実行は停滞していた。それ以来日本は常に軍の主力(陸軍)を支那大陸の戦場に出動させながらも、一方でソ連国境のソ連軍の動静に不安を抱いていたのである。
|
||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||
国境紛争の善後処理について、日本満州及びソ連の双方とも決して冷淡であった訳ではなく、昭和8年1月、日本側からその目的のための委員会設置案がソ連に伝えられていた。しかしその直前、日本がソ連の要請による不可侵条約締結を拒否したことや、具体化し始めた北鉄売却問題のため、両国の事務当局が忙殺されたなどの理由により一種の外交懸案となったまま棚上げ状態となっていた。
紛争解決のための基本的態度として、日本・満州側は何よりも「国境線の確定」を第一義としていたのに対し、ソ連・モンゴル(外蒙)側は国境線は、愛琿条約(1858)、天津条約(1858)、北京条約(1860)の3条約と興凱湖界約(1861)、琿春界約(1886)の2界約により既に明確に決定済みであるので改めて討議する必要はなく、発生した紛争のみを取り上げるべきであるとした。
半解決とは、正式謝罪の意思表示はないが拉致被害者の引渡しその他紛争の原因をなした事実に対し、復旧等が成された実績の回数を指す。 昭和10年6月 満州国と外蒙間で満州里会議が開催されることとなった。それは同年1月に起こった哈爾哈廊事件に対して善後措置を講じようとしたものであった。満州国と外蒙との交渉とはいうものの、背後には日ソ両国があり、実質的には日本とソ連の交渉にほかならなかった。会談は昭和10年11月下旬に至る間、二次にわたって行われたが、この会談においても双方の主張は一致しなかった。第三次会談は昭和11年10月下旬より行われたが日独防共協定が成立するに及び、交渉は不成功のまま幕を閉じるに至った。
|
||||||||||||||||||||||||||||||
昭和10年に入ると、ソ連国境第一線の兵力が急激に増加し、不法越境と住民の拉致暴行、国境界線の移動による満州領の侵害、満領内に対する航空機の威力偵察、国境要地の占拠など、計画的挑発的傾向を帯び、その度数を増してきた。この時期、日満軍も逐次国境に増援されるようになりソ連の不法行為と見なされるものには断乎とした態度で対応したため、9年以前よりは規模のやや大きな武力衝突を起こすようになった。 主なものは次のとおりである。
楊木林事件 昭和10年6月 11名の日本軍将校斥候が東部国境を巡察中、満領内と認められる地点に予め潜伏していたソ連国境警備兵6名から不意の射撃を受けわが方はやむをえずこれに応戦、ソ連兵1名射殺、軍馬2頭を鹵獲した。国境において日ソ兵が銃火を交え、且つ血を見た始まりであった。日満側はこれを外交交渉に移し、現場の共同調査を要求したがソ連側は之を拒否し書類の受け取りさえも拒絶した。 金廠溝事件 昭和11年1月 東部国境の密山県で、満州国国境警備隊の将校以下108名が同部隊所属の日系軍官3名を惨殺し、兵舎を焼いてソ連領内へ逃走した。わが方の調査によりソ連側の赤化工作により扇動されたものと認められたので、日満両軍の各1小隊が協同して討伐を開始、翌日匪賊と化した反乱部隊を発見、これを攻撃して撃退した。この戦闘で16名の損害、ソ連兵の遺棄死体1、ソ連製兵器を押収した。 ソ連兵が匪賊を指揮扇動していた事実は明白であり、匪賊の引渡し、責任者の処罰、損害賠償などを要求したが、ソ連側は言を左右にして誠意ある態度を示さなかった。 長嶺子事件 昭和10年以来ソ連側の不法行為が活発になりつつあった琿春の国境地区において、昭和11年3月 9名の日本軍将校斥候が国境線を巡察中、満領内と思われる地点に潜伏していたソ連側国境警備隊から射撃を受け交戦状態となった。 彼我ともに兵力を逐次増加し、相当激烈な銃火が交され、5名の損害を受け、その後増援にきた日本軍小部隊も3名の損害を出した。幸い衝突当日の交戦をもって終わりを告げ大事には至らなかった。我が国は、最初の射撃を受けた場所が満領であったことを理由に厳重抗議を行ったが解決をみることはなく、日本側戦死者2名の死体が数日後引き渡されただけであった。
ハイラステンゴール(ホルステン河)事件 昭和11年6月 ホルステン河付近において作業中であった関東軍測量隊員に対し、外蒙兵が哈爾哈河(ハルハ河)を越境し侵入、日本人測量手と白系ロシア人の2名を逮捕連行し測量機器を押収した事件。外蒙側は事件発生地点が自国領である旨主張し、結局抑留した2名の釈放と押収器具の返還には応じたが国境に関する主張についてはいささかも変えるところはなかった。 オラホドガ事件 外蒙軍は、日本軍が出動すると兵を引き、わが方が引き揚げるとまた越境し侵入するといった行動を繰り返しつつ、その動きは逐次活発となった。昭和10年12月 満州軍北警備隊が貝爾湖南西のジャミンホドックに監視所設置のため赴いたところ、既に同地を占領していた外蒙軍から射撃を受け、満州軍と外蒙軍との間に戦火が交されることとなり事態は発展していった。翌昭和11年になると彼我それぞれ兵力を増強、騎兵集団長笠井平十郎中将(15)は関東軍の認可を受け、杉本泰雄中佐(25)を長とする騎兵1中隊、機関銃・装甲車等 1個小隊からなる支隊を編制して越境部隊の鎮圧に任じた。2月12日 杉本支隊は砲兵、装甲自動車からなる外蒙軍と壮絶なる遭遇戦を展開、全将兵は酷寒を冒しつつ勇戦力闘ののち、外蒙軍を撃退した。我が方の損害は鏡山中尉以下8名、負傷4名であり、これはこの方面の紛争において日本軍がはじめて出した犠牲者であった。 タラワン事件
満蒙国境方面とくにハルハ河付近は国境不明確地区なので、絶えず小紛争が続発していた。昭和11年3月 日本軍は当時唯一の機械化旅団である独立混成第1旅団から渋谷安秋大佐(23)指揮の歩兵1大隊、戦車・野砲各1中隊基幹とする部隊が、所在の騎兵部隊と国境警備を交代すべく、アッスルムス付近に進出、状況捜索と地形偵察に着手していた。
3月29日 恒吉大尉指揮の部隊が外蒙軍の飛行機2機の急襲を受け、満軍の自動貨車が運行不能に陥った。状況を知った渋谷支隊長が部隊を派遣したところ今度は12機からなる編隊かた超低空による銃撃戦を受けた。我が方は直ちに疎開分散の上反撃、1機撃墜を確認した。さらに地上の外蒙軍(騎兵300、装甲車10両以上、砲兵1中隊)も呼応し、我が軽装甲車2両が大破炎上した。渋谷大佐からの報告に接した騎兵集団長笠井平十郎中将(15)は、野砲小隊と航空部隊2中隊を現地に派遣し、4月1日には戦車を含む有力な外蒙軍に対し、我が飛行隊は攻撃を加え相当な損害を与えた。
|