満ソ国境紛争1/乾岔子島事件、張鼓峰事件等 概説2  
 The Skirmishes on the Manchurian-Soviet Border T ; The Zhanggufeng Incident


===== 乾岔子島事件/当時の背景 =====

昭和12年6月 満州の北正面に乾岔子(カンチャーズ)島事件が起こった。
そのころソ連は第二次五ヵ年計画が成功のうちに概了し、その重工業建設に基づく国力、軍事力が急速に上昇しつつあった反面、スターリンの粛清工作のピークとされたトハチェフスキー事件が起こっていた。一方ナチスドイツの勃興は目を見張らせるものがあり、ソ連を巡る内外の情勢は多事多難を極めたように見受けられた。また支那においてはコミンテルンの画策が逐次功を奏し、昭和11年12月の西安事件を契機に国共合作の気運は時を追って熟しつつあった。かくて支那全般の対日感情は急速に悪化の一途を辿り、日支両国間の緊張は高まり、東亜の情勢も予断を許さぬものがあった。当時我が陸軍はようやく石原莞爾大佐の構想に基づき、国力、軍事力の強化に具体的な第一歩を踏み出し始めたばかりであった。
乾岔子島事件はこのような情勢のうちに発生したのであって、国境紛争の中でも国境河川である大河の中洲の帰属をめぐって起こった特異の事件であった。

===== 事件経緯 =====

乾岔子島は、愛琿東南方約100キロ付近、黒龍江(アムール河)上にある中洲の一つである。以前から満ソ両国の船舶は同島の北川水路つまりソ連河岸寄りを以前から航行していた。満州国は国際法上の原則「国境は航路中央線」であるとし、同島を自国領とみなしていた。これに対しソ連側は、不平等条約たる愛琿条約を盾に、黒龍江については航路とは無関係に、主な島、中州は全部ソ連に含まれるものという既往のロシア・清国間の取り決めを主張していた。

昭和12年6月19日早朝 ソ連国境警備隊約20名が乾岔子島に上陸、満州国職員や採金労務者らを強制的に退去させた。関東軍司令官は、参謀本部の指示に基づき第1師団の一部を河岸付近に展開させ、武力行使の準備を進めた。対岸のソ連軍は狙撃3個師団と見積もられた。6月29日 参謀本部は武力行使を中止し、外交交渉による事態収拾に方針を切り替えた。その日ソ連政府は日本政府の申し入れに応じて同島の原状回復、事件地付近の集結兵力の引き揚げに同意した。6月30日 3隻のソ連砲艦が、南側水路に高速度で侵入、河岸の日満軍部隊に射撃を浴びせた。日満軍は直ちに速射砲にて応射して砲艦1隻を撃沈、1隻に損傷を与えた。重光葵駐ソ大使が厳重なる抗議を行った結果、7月2日 ソ連外務当局も日本側の現状復帰要求に応じ、モスクワでの外交交渉の結果、5日までに撤兵を完了した。

日本の主張どおりに解決したことを受けて日本陸軍とくに関東軍内では、国境紛争は外交交渉よりも武力処理の方が即効的だとの思想が台頭し、ソ連は当分の間、対外干渉の余地なしと判断されることとなった。そのため関東軍をはじめ、いわゆる盧溝橋事件拡大派が強硬論を主張する根拠となった。なおソ連のこの低姿勢は、当時ソ連内で進められていた大規模な高級幹部粛清工作に関係が在ったのではないか、とされている。

===== 張鼓峰事件 (ソ連呼称 ハーサン湖事件)/当時の背景 =====

張鼓峰は満州国東南端の琿春県が朝鮮東北部に、ちょうど舌のように長く延びた、ソ連領ポシエット湾と豆満江のあいだの丘陵地帯である。標高はわずか150メートル弱であったが、この頂上からは朝鮮の国境鉄道が手に取るように眺められ、また北鮮の要港・羅津も一望のうちにおさめられることが可能な戦術的重要地であった。

張鼓峰付近国境要図

この付近の国境線もまた不明確であった。1886年の琿春条約の中国文では張鼓峰は清国領すなわち満州国領であり、日本側は張鼓峰の頂上は当然満州領であると解釈していた。
他方ソ連側の主張によれば、国境はハーサン湖の西方、張鼓峰の頂上を通っているといい、しかも実際には界標はなく、問題はこじれていた。もともと辺境の地で、付近の満州人が牧草を求めて歩いていた所であったが、満州事変後になってこの地方にも日ソ両軍の国境警備隊が配置され、日本軍は第19師団の歩兵第76聯隊の1小隊が古城に駐屯していた。当時両軍の主力は、日本の在満兵力6師団に対し、極東ソ連軍は20数個師団に増強され、極東軍司令官ブリュッヘル元帥は、かつて第1次国共合作時代、顧問として広東に赴いたガロン将軍であった。

===== 事件の原因・動機 =====

ではなぜソ連軍はこの時期に張鼓峰に兵を進めたのか。

@ 対日危機を煽り、反スターリン気分を対外的に振り向け、国内の統制強化を求めようとした。
A ブリュッヘル元帥が、赤軍の粛清事件への不安から保身のため国境紛争を逆利用した。
B リ大将亡命事件(下記参照)の極東赤軍の威信回復のための示威運動。
C 日本軍の武漢攻略戦準備の進展したことに鑑み、張鼓峰で事を構え支那を間接的に支援しようとした。

一方日本側にとって見れば、たしかに張鼓峰は戦術的要地ではあったが、全般の位置から考えるとそれは全満州の最南東端の一点に過ぎず、しかもその周辺の地域はそこぶる狭小で大兵力の使用には不適格な地形であり、ソ連軍の一部がこれを占拠したとしても大局には影響はなかった。また前年夏からの支那事変の展開上からも、ソ連との間のあまり意味のない地点をめぐって紛争を引き起こすようなことは、本来なら絶対に避けなければならなかったのである。

===== 事件経緯 =====

昭和13年6月13日 ソ連人民委員部極東部長官(GPU長官)リュシコフ政治大将が、満州国琿春県に亡命した。これが動機であったとは明言できないが7月9日 10数名のソ連兵が張鼓峰頂上に現れその兵力は次第に増加した。満州国は張鼓峰付近は前述の条約により自国領としていたが、この方面の防衛を担任する朝鮮軍は「国境不明確地区には配兵しない」方針により一兵も配置していなかった。

ソ連兵増強の確認を古城守備隊より受けた朝鮮軍(軍司令官 小磯國昭大将12)は、第19師団の一部派遣を準備した。7月13日 第19師団からソ連兵約40名が張鼓峰を占領中で、着々陣地構築中である旨報告を受けた朝鮮軍は、多田参謀本部次長、東條陸軍次官、磯谷関東軍参謀長あてに発電した。
7月16日 大陸令第154号をもって朝鮮軍司令官に次のように命令した。「張鼓峰付近に於けるソ軍の不法越境に対し、所要に応じ在鮮の隷下部隊を国境近く集中することを得。但し実力の行使は命令に依る。」 このように集中するか否かは、朝鮮軍司令官の判断によって決めることとされたが参謀本部作戦課の考えは、張鼓峰上のソ連兵を機敏に撃退し、その上で外交折衝を進めるという一撃思想を有していた。朝鮮軍司令官は第19師団長に応急派兵(平時編成)の準備を命じ、17日 出動準備部隊の進出を命じた。

7月20日 閑院宮参謀総長が武力行使について上奏裁可を仰ごうとした。その際陛下から、「現在の情勢に於いて万々一にも真面目な対ソ戦が起きた場合、どう処置を付ける考えか」との御下問、特に支那事変拡大中の我が国力・経済力について御軫念の程を拝察されるお言葉があり、裁可を仰ぐのを自発的に取りやめ、朝鮮軍に対し大陸指第204号にて事実上の武力行使中止を命じた。7月26日には大陸指第210号で原駐屯地への帰還を指示、当分歩兵1個大隊、砲兵、工兵各1個中隊で慶興の守備隊を増強し、主力は撤退を決めた。これで張鼓峰事件は不拡大方針をもって打ち切ることができるかに見えた。

===== 沙草峰事件への拡大 =====

第19師団長・尾高亀蔵中将(16)は、軍隊教育の権威であるとともに積極敢為な将軍として知られていた。また隷下部隊長も豪気な者が多く、ソ連の不法越境に対し実力を行使するという一撃思想は師団将兵に及び、鋭意その奪回準備が進められていたが命令により逐次主力は撤退しつつあった。

7月29日 ソ連軍が新たに張鼓峰北方2キロの沙草峰南方の国境を越えて陣地の構築を開始したことを確認した第19師団は、ソ連の新たな進攻と見なして2個小隊をもって独断これを攻撃駆逐した後、紛争を避けるため後方に退いた。するとソ連増援部隊が沙草峰一帯を占領、さらにブリュッヘル司令官の命令により第40狙撃師団主力が前進、第39狙撃軍団と沿海集団飛行隊が戦闘態勢に置かれた。尾高師団長が沙草峰方面へのソ連軍の越境を新たな事件として独断攻撃を加えたことにより、事態は急激に発展する。
7月30日 第19師団は2個大隊余をもって沙草峰及び沙草峰方面のソ連軍に夜襲を敢行、一帯の稜線を占領した。これに対しソ連軍は、第40狙撃師団主力をもって全面攻撃を加えてきたが、日本軍はこれをすべて撃退した。ソ連国防人民委員ヴォロシロフはシュテルン大将を軍団長に任命、3個狙撃師団と1個機械化旅団をもって日本軍の撃滅と国境回復を命じた。

当時第19師団は国軍内の一流師団と目されていた。しかし優勢な空地両面の兵力を展開したソ連軍に比べ、著しく劣弱であった。なぜならわが方は絶対不拡大方針のため、1機の飛行機、1両の戦車、1門の長距離砲もなく、築城の時間も不十分で、戦闘は逐次困難を加えるようになり、専守防御をせざるを得なかったからである。比較的射程の大きい九〇式野砲及び長距離砲である一五センチ加農砲が出現したのは停戦前の一両日に過ぎず且つ戦闘は高地を含む局地において行われた。
ソ連軍は8月6日から軍団主力をもって総攻撃を開始、以後5日間激戦が続いた。圧倒的な戦力差の中で第19師団は専守防御に徹し、強烈な砲撃、執拗な戦車攻撃などに耐え陣地を固守して奮戦、張鼓峰・沙草峰両高地を死守してはいたが、損害増加により戦力の限界が危ぶまれていた。

中央部においても、ともかく一度当面のソ連軍を撃退して面目も達したのだから、いつまでも苦しい防御戦闘を継続する必要もないではないか、軍は自主的に、ある時期をみて兵を撤収することが適当ではないか、という意見が有力になっていた。
こうした中でモスクワでの停戦協議が成立したのは8月11日のことである。

===== 停戦協議 =====

圧倒的戦力差をもって全面攻勢を行ったソ連であったが、自己の主張する国境線を完全に確保した上で停戦に応じたのではなかった。不十分なまま現状停戦に応じたのである。また日本政府は当初強硬な現状回復要求を行ったが、戦況の推移に応じて急速に軟化した。前述のように専守防御の日本軍は苦戦を強いられ、張鼓峰頂上の北部稜線その他を辛うじて部分的に保持していたためである。
日本軍の撤退を要求して一歩も譲らなかったソ連であるが、重光大使が日本軍は自主的に1キロ後退し、ソ連軍は現在地に留まることに譲歩、8月11日正午 停戦の合意が成立した。しかもその後リトヴァノフ外務人民委員は、公正の観念より日本軍のみの後退を必要とせずとして日ソ両軍とも10日1200現在の線に止まることを提議し、その通りモスクワ停戦協定が成立した。
ソ連軍は大兵力を投入して力攻に努めたが、成果不十分なまま大きな損害のため攻撃の限界に近づき、日本側の牽制措置などによる態勢上の不利ともあいまって停戦せざるを得ない状況であった。また下記のとおりソ連軍の死傷率は高く、停戦協議が順調に進捗した原因もその点にあった。

===== 戦果と損失 =====

  日本軍 ソ連軍
戦闘兵力 6814名 15000名
動員兵力 8862名 32000名
火砲 37門 237門
戦車  − 285両
航空支援  − 250機
戦死 526名 792名
戦傷 914名 2752名
戦病  − 527名
死傷率 21.1% 27.1%
戦車破壊 96両  
砲 〃 16門  
機関銃〃 3丁  
飛行機撃墜 3機  
鹵獲小銃 105丁  
〃自動小銃 3丁  
〃機関銃 22丁  

ソ連軍の損害は、1993年に秘密指定解除によって公表された統計調査による。

しばしば言われているような、‘無敵と称した関東軍は、ソ連機械化部隊の前に無力であり完敗を期した’とする批評は間違いである。後のノモンハン事件もそうだが、互角以上に戦ったのである。作戦第一夜に敢行された歩兵第75聯隊第1大隊主力による夜襲は、日本陸軍が創設以来、伝統として誇った白兵をもって勝利を収めた光輝ある戦例であり、昭和20年夏の終戦に至るまでの間、対ソ地上戦闘において手中に収めた類例の少ない赫々たる勝利であった。

===== お言葉 =====

8月15日1400 閑院宮参謀総長は、張鼓峰事件終結に関し委細上奏申し上げたところ、「今回張鼓峰事件において、わが将兵が困難なる状況の下に寡兵これに当り、自重隠忍克くその任務を完うせるは満足に思う。尚死傷者に対し哀矜の情に勝えず。この旨将兵に申し伝えよ。」との優渥なる勅語を賜った。
このお言葉は参軍第502号によって朝鮮軍に電報され、軍から関係諸隊に伝達された。

===== 張鼓峰事件の教訓 =====

当時陸軍は、漢口作戦を準備中であったため、対ソ正面に兵力を拘束されないよう戦車や航空機を使用しなかった。しかも停戦直後には2週間にわたって死守した戦線から撤退し、豆満江左岸には配兵しなかった。それを見たソ連軍は相当の兵力を残し、日本軍撤退後に自己の主張する国境付近に野戦陣地を易々構築、翌年にはトーチカ陣地の構築にすらとりかかった。日本軍は国境線に関する主張を一方的に放棄したのである。
局地に終わったとはいえ戦闘に発展する契機となった第19師団長尾高中将の独断攻撃は不問に付され、停戦後、国境線をいとも簡単に放棄して我が将兵の死闘を無意味にした責任もまったく追及されなかった。後者の点に最も不満であったのは関東軍であり(本事件は朝鮮軍の掌管)、参謀本部主導によるこの張鼓峰事件処理は失敗とみて、のちに第一線部隊への強硬的な「満ソ国境紛争処理要綱」を明示することとなった。

この戦闘は本格的ではなかったとは云え、日本軍として始めて経験した近代武力戦であるとともに対ソ連軍戦闘であった。当時まだ未知数であった「火力の実体」と「優勢なる歩戦砲戦力統合の要領」の二点について貴重な教訓が残されたはずである。翌年のノモンハンの戦況は、既にこの事件においてその実相の一端が如実に展開されていた。従って対ソ作戦上の前衛的任務と国境防衛を双肩に担っていた関東軍としては、殊に真剣にこれらの戦訓を検討すべきであった。

そして張鼓峰事件から約10ヵ月後の昭和14年5月11日(12日) 今度は西方国境にてノモンハン事件が勃発するのである。


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