満ソ国境紛争2/ノモンハン事件 概説3 昭和14年5月11日〜昭和14年9月16日
多くの情報から、ソ連軍は8月中に攻勢確実と判断した関東軍は、多数の部隊を指揮統制するのは第23師団司令部の能力を超えており、以前から検討していた第6軍を予定を繰り上げ編成した。8月4日編成が下令され、軍司令官は荻洲立兵中将(17)、軍参謀長は藤本鉄熊少将(26)が任じられた。第23師団の指揮下部隊のほかに、第8国境守備隊、独立守備歩兵大隊、満州軍2個支隊、ハイラル第1、第2病院などが加えられた。軍司令官以下の司令部幕僚は関東軍やソ連軍、満州についての予備知識をほとんど持っておらず、司令部事務に忙殺され、幕僚を前線に派遣する前にソ連軍の攻勢を迎えることになるのである。
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ソ連は大攻勢を秘匿するためか、8月上旬からは限定的な攻撃に止め、前線では持久戦的な戦いが続いた。我が砲兵射撃に対しては数倍の応射でこたえ、砲爆撃の支援下にまず戦車部隊が近接して稜線下で射撃をし、その援護下に歩兵部隊が我が拠点に接近して手榴弾攻撃等を加えるのが常であったが、大規模な包囲・突破に出ることも突撃してくることも少なく、我が軍に撃退されることがしばしばであった。日本側では伝えられた8月攻勢もこの程度か、との観測も生じつつあった。 ソ連軍の作戦構想は、日本軍の両翼に強力な打撃を加え、日本軍をハルハ河東岸の外モンゴルが主張する国境線内に補足して包囲殲滅することであった。このためソ連・外蒙軍は、日本軍主力を拘束する正面攻撃の中央集団と両翼を攻撃する南北の各集団を編成し、8月20日早朝全正面にわたって大規模な総攻撃を開始した。ソ連軍は以降の戦闘を二つに区分した。
第一期 8/20〜8/23 日本軍の分断と包囲
<ソ連・外蒙軍>
<日本・満州国軍> これに対して第23師団は攻勢移転計画を示達し、反撃を試みた。その方針は、ソ連・外蒙古軍を深く日本軍陣地に誘致する一方、攻撃部隊がソ連・外蒙古軍の側背に向かって攻撃前進し補足撃滅する、というものであった。しかし実際には日本軍の攻撃兵力は弱小である上に準備不足であり、縦深性に乏しい陣地は正面が過広であり、場所によっては陣地間の距離が4Kmから6Kmも離れ、防御用の鉄条網も設置されていなかった。
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8月23日 第6軍は戦闘司令所を戦場に推進、約9個大隊の兵力を以って左翼方面から攻勢に転じ、伸るか反るかの決戦を企図した。
ソ連・外蒙軍の猛攻下に態勢を転換し、24日予定どおり攻撃を開始したのは5個大隊であり、混戦状態のなか、優勢なソ連軍を圧迫し逐次敵中に突入したが、かえって被包囲の態勢に陥り、敵戦車の逆襲がしきりと行なわれ、部隊は分裂し、ついには後退させて掌握しなければならない状況となった。この夜右翼の拠点フイ高地も落ち、8月26日から防御に立つのやむなきに至り、29日には日本軍は外蒙古軍の主張する国境線から完全に駆逐されてしまったのである。 中でも第23師団は、第一次事件ですでに1個聯隊全滅を経験していたが、その後補充を受け増強されていたものの強力な装備をもたないままで第一線に配備されていた。そして24日の攻撃に際し、小林恒一少将指揮の歩兵団は、ホルステン河東方の第一線に配備されたが、終日苦戦の末、夕刻に敵陣に突入した。ところがそこを敵戦車に蹂躙され、初期の戦闘とは異なり新型戦車には肉薄攻撃は通用しないまま、歩兵団は大混乱に陥り、ほとんど壊滅的な打撃を受けて後退、小林少将自身戦車の下敷きになって重傷を負った。さらに28日から29日にかけて、師団司令部をホルステン河北方に移そうとしたところ、占領されたフイ高地方面からの攻撃を受け師団全体がソ連軍戦車群に完全に包囲されてしまった。山縣支隊長と野砲兵第13聯隊長伊勢大佐は脱出に失敗、自決した。小松原師団長も軍司令官宛ての遺書を残して最後の突撃に移る決心まで固めていたが、軍司令官の厳命によって31日零時に辛うじて脱出、多くの将兵とともに後退に成功した。 歩兵部隊のみならず、協力した砲兵部隊の多くが火砲と運命を共にし、壊滅的打撃を受けた日本軍は、ソ連側の主張する国境線外に撃退された。軍司令官は、戦闘に参加していなかった第7師団主力にノモンハン付近を確保させ、新来の部隊を待って今後の作戦に備えるしかなかった。ソ連軍は日本軍の誘致を待つまでもなく次々と我が陣地を分断、包囲し、戦況は急速に悪化していった。
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全戦線にわたって日本軍を圧倒したソ連軍は、外蒙古の主張する国境線で進撃を停止、また第6軍も自ら係争地区外に後退する方針を固めつつあった。大本営としては作戦集結の意思を持っていたが、関東軍は再び増援部隊を派遣して作戦継続の意思を示していた。8月30日 作戦集結に関する命令(大陸命第343号)が下ったが、表現に明確さを欠き、参謀次長中島鉄蔵中将(18)を関東軍司令部に派遣、さらに9月3日 改めて攻勢中止の大命(大陸命第349号)が伝えられた。関東軍は戦死者収容のための限定作戦の実施を要求したが認められず、9月6日 ノモンハンにおける作戦を中止するとの関東軍命令を下達、ここにノモンハン事件は終了した。 9月15日モスクワにおいて、東郷駐ソ大使とモロトフ外務人民委員の間で合意が成立、9月16日 停戦協定が共同発表された。国境線については、日、満、ソ、外蒙の間で協議が続けられ、昭和15年6月9日合意が成立した。確定した国境線の大部分はソ連、外蒙古が従来より主張していた線であった。
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第23師団長小松原道太郎中将は、事件終結後東京に帰還(後任師団長 井上政吉中将18)、のち待命となった。英霊を悼んで自宅に篭ることが多く、昭和15年10月、自殺のような病死を遂げた。
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ノモンハン事件は日本陸軍にソ連軍の実力を見直す機会を与えた。
@ ソ連軍地上主戦力である砲兵、戦車の火力及び装甲装備が、日本軍とは段違いに強力である
ノモンハン事件後、陸軍中央部では「ノモンハン事件研究委員会」を設けて、ソ連軍の実力の評価、日本軍の軍備と対ソ戦法の再検討を行なった。約3ヶ月をかけた研究委員会の報告は、陸軍軍備については、日本軍の火力装備が著しく劣っているからこの際徹底的に改編すべきか、或いは現装備にある程度の火力装備を増強する程度にとどめるべきかの根本問題に論議が集中された。 奇しくもそのころ第二次欧州大戦が始まっていた。陸軍当局は独軍の目覚しい作戦振りに目を見張り、ノモンハン事件の教訓よりも独軍の戦訓を参考にしたいとする気持ちを強く抱くに至った。この思念がのちの山下軍事視察団のドイツ派遣へと発展し、ノモンハンの戦訓は重視されないまま大東亜戦争を迎えることとなった。
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参謀本部及び関東軍司令部の首脳者は、ノモンハン事件の敗戦の責任を問われた。参謀本部では中島鉄蔵参謀次長(18)、橋本群第一部長(20)が、関東軍司令部では植田謙吉軍司令官(10)、磯谷廉介参謀長(16)、荻洲第6軍司令官(17)らが現役から退けられた。 しかるにノモンハン事件にもっとも大きな影響力を与え、実質的な責任者と言われた関東軍司令部第一課(作戦)参謀の多くは他の閑職に転属を命じられたに過ぎなかった。終始事件の拡大を主張した服部卓四郎中佐は千葉歩兵学校付に、辻政信少佐は中支第11軍司令部へ転出、これらの参謀を指導・監督する立場であった高級参謀寺田雅雄大佐は千葉戦車学校付、大本営作戦課長の稲田正純大佐は習志野学校付である。しかもこれら転勤者はその後、いつの間にか中央部の要職に返り咲いていた。中には大本営作戦課の重要ポストを占めた者もいた。申し訳程度の左遷であったのである。 信賞必罰は陸軍部内では公正ではなかった。積極論者が過失を犯した場合、人事当局は多めに見てしばしば転属という手段で形式的に解消された。一方自重論者は、積極論の前には卑怯者扱いにされ易く、もしも過失を犯せば手厳しく責任を追及される場合が少なくなかった。結果よりもプロセスや動機を、合理性・論理性よりも積極性を、それぞれ重視することは、声の大きな者の突出を助長することとなり、さらには作戦結果の客観的評価・蓄積を制約し官僚制組織における下克上を許容していった。
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ノモンハン事件をもって頂点に達した満州国とソ連・外蒙両国間の国境紛争は、事件後急速に減少し、独ソ開戦と大東亜戦争開戦とともに極めて平静となった。それが急速に再燃し始めるのは昭和19年夏季からである。 以下はのちの大陸指第2164号(昭和19年9月18日付)の「静謐確保」に関する指示の、直接原因となったと判断される事件である。
<五家子事件>
<モンゴシリ事件>
両事件ともに発展することはなく、爾後平静に帰したが、東西両地域において時を同じくして発生した国境紛争に対し、大本営は殊に心痛し、仮に満州国境警察隊所在の台地を占領されても兵力行使はもちろん、兵力移動をも避けるように要求した。関東軍においても絶対不拡大の方針を厳達していた。ノモンハン事件前における「侵さず侵されず」を基本とした関東軍の国境警備は、状況によっては兵力をもって警備しなくてもよい、の域にまで緩和された。 |