日独戦争(第一次世界大戦) 概説1   大正3年8月23日〜大正7年11月11日
 The Asian and Pacific theatre of World War ,1914-19


大正3年(1914)8月1日 欧州に世界大戦が勃発した。当初我が国は厳正中立を表明するも、英仏など連合国からの支援要請を受けてドイツに宣戦を布告するに至った。日本の参戦理由は日英同盟に根本をおいたものであり、宣戦の詔勅にも明示されていたが、日英同盟は必ずしも日本の参戦を義務づけるものではなかった。欧州大戦を好機ととらえ、世界における日本の地位を高め東亜における立場を強固にしようとしたのである。即ち、渋滞を極めていた支那問題を解決して東洋平和を確立することを目的としたもので、日露戦争までが国家存亡の関頭にたってやむなく受けて起った戦争であるのに対し、この日独戦争は、国策遂行の手段としての戦争であるとも見られるものである。
欧州列強が死闘を継続している間に米国と日本は急速に国力を伸長した。とくに日本の発展はめざましく、五大強国の一つと云われ新設された国際連盟の常任理事国を勤めるまでになった。しかし日本の主張した人種差別撤廃宣言は容れられることはなく、日英同盟は破棄され、やがては日本の発展を阻止せんとする対日圧迫政策を招来することとなるのであった。

日独戦争1 :欧州大戦の背景 三国同盟と三国協商 ドイツの東亜進出 など
日独戦争2 :参戦経緯 膠州湾青島作戦 地中海遠征作戦 など
欧州大戦概説1 :マルヌ会戦 タンネンベルク会戦 ユトランド沖海戦 など
欧州大戦概説2 :無制限潜水艦攻撃 米国参戦 独軍の攻勢 戦争の終結 など

「第一次世界大戦−World War T」とは、「第二次世界大戦−World War U」勃発に伴いそれと区別する意味からのちに命名されたもので、それ迄は「欧州大戦−European War」もしくは「世界大戦−the Great War 」などと呼称されていた。我が国の作戦行動は、一部艦艇を除き概ね極東に限定されており公刊戦史等では「日独戦争」と呼称している。

===== サラエボ事件 =====

大正3年(1914)6月28日 オーストリア=ハンガリー帝国(以下墺国:オーストリアと記する)の皇太子フランツ・フェルディナンド大公は、ソフィー・シュテック妃殿下と共に、ボスニア州で挙行される陸軍大演習の統監に赴く途中、州都サラエボの市役所に立ち寄った。晴天の日曜日とあって沿道は皇太子夫妻を歓迎する人波で埋め尽くされていた。その時一人の男が市役所の歓迎式典に向かう自動車に向かって爆弾を投げつけた。爆弾は後続車の前で爆発、侍従武官と副官、群集の数人が負傷した。
あやうく難をのがれた夫妻は、それでも予定どおり歓迎式典に臨んだ後、危険を避けるために帰路を変更、川沿いの道を進むことにした。しかしこの予定変更は上手く伝わらなかった。先導車輛が元のコースを進もうとしたため改めて車をバックさせようとしたその時、一人の青年が拳銃を発砲、最初の一発は皇太子の顔に、二発目は皇太子妃の腹部に命中した。直ちに二人は手当てのため運ばれたが15分後には死亡した。

最初に爆弾を投げた工員も拳銃を発射した19歳の学生もセルビア人であった。取り調べの結果この事件は、汎スラブ主義秘密結社による組織的な暗殺計画に基づいて決行されたもので、本拠はセルビアの首都ベルグラードにあり、背後にはセルビア軍部が関与していることが明らかとなった。
ではどうしてオーストリアの皇太子がセルビアの青年に撃たれなければならなかったのか?そこには「ヨーロッパの火薬庫」バルカン半島を巡る各国の複雑な対立があった。

===== バルカン半島情勢 =====

バルカン半島は古代ギリシャ、ローマの文明が栄えた文化の地であるが、中世に入ってオスマン・トルコ帝国の領土となり、ながくその圧政に苦しんでいた。19世紀に入り、民族解放運動に刺激されてバルカンの諸民族はトルコからの独立を要求、やがてその支配から離れて、ギリシャ、ルーマニア、ブルガリア、セルビアの諸民族はそれぞれ独自の国家を形成するに至った。このうちセルビアはアドリア海にのぞむモンテネグロ、ボスニア、ヘルツェゴビナの三州を併合、大セルビア国をスラブ民族の手によって建設しようという希望を持っていた。

バルカン略図

この動きを支援していたのが同じスラブ民族国家であるロシアであった。ロシアはコンスタンチノーブルを勢力下におくための手段としてバルカン諸民族の庇護者を標榜し、その民族解放運動を支援することによってトルコ帝国の分断を図っていた。ロシアとトルコの紛争は明治9年(1876)以降武力紛争に発展、露土戦争となった。明治11年(1878)にサンステファノ条約によって一旦終息したものの、あらためて激化したバルカン情勢の調停を協議する7ヶ国ベルリン会議が開かれた。これによってボスニア、ヘルツェゴビナの二州はオーストリアが委任統治の形で行政権を預かることとなった。

ところが明治41年(1908)になり、オーストリアは自国領として併合してしまったのである。併合されたセルビア人住民はもちろん親国たるセルビアも怒って武力によってでもオーストリアから奪還しようと考えた。しかしオーストリアの背後には同盟国ドイツ帝国が控えている。一方のセルビアの後ろ盾となるロシアは、日露戦争の敗戦(明治38年 1905年)の痛手から立ち直るには時間を要する。機会をうかがうこと数年、サラエボの銃声はセルビア人の積年の恨みがこめられていた。

===== 台頭するドイツとロシア・イギリスとの対立 =====

周知のように「サラエボ事件」が欧州大戦の契機ではあったが、その遠因は二大陣営の対立に端を発する。

ウイルヘルム1世を擁し、ビスマルク、ローン、モルトケの三傑の指導するプロシアは、普墺戦争、普仏戦争を経て明治4年(1871)近代国家としての統一ドイツ帝国を完成させた。その後19世紀末には飛躍的に国力を増強させ、ウイルヘルム2世によってフランスに代わって欧州第1の強国になった。それどころか生産力はイギリスをも凌ぎ、独商品は世界的に英商品を駆逐しつつあった。しかし近代国家としての発足がおそく、列強各国に比べる植民地獲得競争に立ち遅れていた。
ドイツは同じゲルマン民族の多いオーストリアとは同盟関係にあった。そのオーストリアがバルカン方面でロシアと対立することを恐れ、ロシアの関心を極東方面に向けさせようとしていた。日露戦争後の三国干渉はその典型である。

ロシアの伝統的南下政策には、元来3つのルートが存在していた。

  @ バルカン半島・ダーダネルス海峡経由の地中海進出
  A 中央アジアからイラン・アフガニスタン経由のインド洋進出
  B 支那東北部(満州)、朝鮮・ウラジオストク経由の日本海進出

いずれのルートにおいてもロシアはイギリスと利害が衝突しており、その上近東でオーストリア、極東では日本とも激突することとなった。19世紀末からの満州や朝鮮でのロシアの南下政策はとくに活発であったが、日露戦争での日本の勝利は、極東方面に主力を注いでいたロシアの南下政策に変更を余儀なくされた。以降ロシアは、南下政策の重点を極東からバルカン方面に移さざるをえず、ここにロシア−オーストリア両国の衝突は必至となった。
さらに近東地方は英独対立の一つの要素であった。ドイツ資本は、オーストリア、バルカン諸国から小アジアにまで浸透しつつあり、いわゆる「3B政策」/ベルリン−ビザンチウム(イスタンブール)−バクダッド を以ってペルシャ湾を狙い、イギリスのいわゆる「3C政策」/カイロ−カルカッタ−ケープタウン に対抗、イギリスの宝庫たるインドへの通路を脅かしていた。

===== 三国同盟と三国協商 =====

明治11年(1878)の7カ国によるベルリン会議によってロシアとの間に不和が生じたドイツは、オーストリアと結んでロシアに備えることとなった。さらに植民地問題でフランスと不仲となっていたイタリアを含め、明治15年(1882)5月 ドイツ、オーストリア、イタリアによる三国同盟が成立した。

三国同盟によって脅威を受けたロシアは、同様に脅威を感じていたフランスに接近、明治24年(1891)両国の間に秘密同盟が締結された。イギリスは欧州大陸でのバランス・オブ・パワーを保つことを外交の基本としており久しく中立を保っていたが、ドイツが強力な軍備を背景に次第に台頭してくると、植民地問題で不和になっていたフランスと結んで明治37年(1904)英仏協商を成立させた。次いで日英同盟−日露戦争以来悪化していたロシアとの関係を改善して、明治40年(1907)イギリス、フランス、ロシアによる三国協商を成立させた。
これから欧州大戦の勃発する大正3年までの7年間は、この三国同盟と三国協商との二大陣営の対立がつづくのである。

この三国協商は最終的には「ドイツ封じ込め政策」であった。ドイツと三国同盟を結んでいるイタリアですら、ドイツと結んでいる限り英仏の圧迫を受けてことごとく不利になるので、むしろ三国協商側に同調する気配を示していた。ドイツの頼みとするのは結局オーストリアだけである。しかし、神聖ローマ帝国の余光で国勢を保ってはいるものの、皇太子を暗殺され失意の底にある老齢のフランツ・ヨセフ1世が死去したら、多民族国家である墺は自壊する危険性があった。墺にとっても、自国の版図を拡大するにはバルカン半島への進出以外に道はなく、それにはセルビアを中心とする汎スラブ民族主義運動と、背後に控えるロシアが大きな障壁となっていた。

===== 欧州各国の参戦 =====

緊迫するバルカン情勢においてドイツとの緊密な連携を準備していたオーストリアにとって、サラエボ事件は決定的なものとなった。予めドイツの同意を取り付けていた墺は、7月23日10か条からなる強硬なる最後通牒をセルビアに手交、事態は一気に緊張の度を強めた。墺のセルビアに対する戦意は明白で、事件が拡大するか否かは、セルビアを支持するロシアと墺の背後にあったドイツの態度如何にかかっていた。三国協商の一翼である軍事大国ロシアは、墺に向かってロシア−オーストリアの二国間協議を提議したが28日 墺はこれを拒否してセルビアに宣戦布告した。

一方ドイツは、本件を墺とセルビア間に限定されたものとして考え、セルビアを支持してロシアが起つとまでは予想していなかった。その上イギリスは中立を守るであろうことを期待していた。駐独英国大使に向けて「ドイツが限定的参戦の場合、イギリスの中立」を要求した。しかしイギリスは29日、問題が独、仏を巻き込む場合、英の参戦の可能性を言及、事件拡大を強く警告した。非公式ながらも英国の強硬な態度表明は独政府に大きな衝撃を与えた。ドイツは再度、墺とロシアとの二国間交渉を強く勧告するも状況は遅きに失した。
7月30日 ロシアの総動員は最後的に発令された。

ロシアの総動員令をもって事態は一挙に世界戦争への道を辿る。セルビアに対してのみ動員を準備していた墺は、ロシア戦を想定し改めて総動員を準備、ドイツも総動員が必至となり、8月1日ドイツはロシアに宣戦した。同時にロシアと同盟関係にあるフランスに向かって、独露開戦の場合の仏政府の態度を8月1日1300迄に回答せよと要求した。フランスは「国家の利益の命ずるところに従う」と返答、国境付近での挑発的行動が続いたのち、8月3日仏軍がベルギーの中立を侵犯したことを口実に、ドイツはフランスに宣戦した。またベルギーに対しては軍隊通過を要求する最後通牒を提出、永世中立国のベルギーは敢然とこれを拒絶し、アルベール国王は正義のために戦うことを国民に宣言した。こうなると三国協商の最後の一国、イギリスの態度はもはや明白であった。ドイツのベルギーの中立侵犯が明らかとなった4日夜、ドイツと戦争状態にあることを宣言した。

第一次世界大戦 主要宣戦布告経緯 断交を含む
1914
大正3年
   
  7.28 オーストリア → セルビア
  8.01 ドイツ → ロシア
  8.03 ドイツ → フランス
  8.04 ドイツ → ベルギー
  イギリス → ドイツ
  8.06 オーストリア → ロシア
  セルビア → ドイツ
  8.12 フランス → オーストリア
  イギリス → オーストリア
  8.23 日本 → ドイツ
  8.27 日本 → オーストリア
1915    
  5.23 イタリア → オーストリア

 
こうしてオーストリアとセルビアの二国間の事件が、墺のセルビア宣戦後1週間のうちに、イタリアをのぞく全ヨーロッパ列強の戦争に発展したのである。イタリア政府は「同盟国である墺の行動は侵略的であるので三国同盟の義務を負わない」として、8月3日局外中立を宣言して日和見的態度をとった。そのイタリアも最終的には参戦することになる。

===== ドイツの東亜進出 =====

プロイセン−ドイツが世界的殖民政策を開始したのは、1870年の普仏戦争(プロシャ・フランス戦争)以降において自国の基礎が固まってからのことである。上述のように当時、すでに先進国である英仏などによって有望な植民地の分割は終わっていたので、僅かにアフリカのトーゴー、カメルーンと南洋諸島を得たのみであった。東亜においては以下のとおりである。

   明治17年(1884) ソロモン諸島
   明治18年(1885) マーシャル諸島
   明治32年(1899) サモアの一部、南洋諸島

そこでドイツは支那に着目し、日清戦争後進んで三国干渉に加わり、遼東半島還付に関して恩を清国に売るとともにロシアに接近し、明治30年(1897)11月、山東省でのフランツ・ニースとリヒァルト・ヘンレの二名のドイツ人宣教師が中国人によって殺害される事件にかこつけ、直ちにドイツ東洋艦隊は軍艦を派遣して膠州湾の占領を狙い、明治31年3月には膠州湾条約によって、清国から正式に膠州湾を99年間租借することに成功した。かねてより同湾に着目していた著名な地理学者リヒトホーフェンの報告もあり、ドイツはここに大築港を行い軍港を設け、軍事上、経済上の根拠地とした。この他山東省内において鉄道施設権、鉱山採掘権を得、次いでその勢いは北清一帯にも及び、さらには揚子江流域にも及んで日英両国にとって脅威となっていった。

===== 対独参戦を巡る日英折衝 =====

大正3年8月1日 イギリスのエドワード・グレー外相は駐英大使井上勝之助に対し、「もしイギリスが仏露側にたって参戦するとしても、英日同盟にかかわる諸利益が巻き込まれることがあるとは考えないし、英国政府が日本政府に援助を求める事態を想定してもいない」と語っていた。之に対し時の大隈内閣は、イギリス参戦の報を受けていない8月4日に「帝国政府は戦局が波及せざらんことを望み、かつ帝国政府は厳正中立の態度を確守し得べきことを期待するものなり。然りと云えども(中略)日英同盟の危殆に瀕する場合に於いては、協約上の義務として必要なる措置を執るに至ることもある。」との立場を表明していた。

しかし英国側は対独戦必至となるや、日本の限定的参戦を希望するようになり、グレー外相は駐日英国大使グリーンに対し、「戦争が極東に波及する場合、英国政府は日本政府に助力を依頼する」旨打電した。英国は支那におけるドイツ租借地を日本が奪取して大陸の権益を増大させることを望んでいない一方で、極東での英国支配地確保のためには日本を利用しようという虫のいい期待を持っていたのである。

8月7日 英独開戦後、独艦艇による海上貿易が脅威を受けるに従い、グリーン大使はグレー外相の覚書を加藤高明外相に提出、日本の参戦を正式に希望する。これを受けて大隈内閣は緊急閣議を開いた。消極論が一部から出されたが、「会議の空気は参戦に勝る外交上の良策なしに傾き、之は同盟に拠る義戦であると同時に三国干渉(遼東半島還付)に対する復讐戦である」として、参戦を是認した。8月8日 1800 山縣有朋ら元老を加えた重要閣議が官邸で開かれた。前夜の閣議以上に強い懸念論が元老の一部から出されたものの大隈首相と加藤外相の説得が功を奏し、英国からの援助依頼を渡りに船とした日本は、電光石火で参戦を決定したのであった。


       日独戦争2/青島作戦 地中海遠征作戦 戦果と損害 戦争の結果 など


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