日独戦争(第一次世界大戦) 概説2 大正3年8月23日〜大正7年11月11日
前記のように英国の本心は、「英国の権益保護のために日本に参戦して欲しい。ただし、日本の権益が拡大されない限りにおいて。」である。そのため日本には限定的な対独宣参戦−シナ海を越えて太平洋まで拡大されず、ドイツ占領下の領土を除き他国の領土にも拡大されない−のみを希望していた。 しかし日本側には、作戦行動をイギリスの云う「一定水域での海軍の軍事行動」に限定する意志はなかった。8月9日 加藤外相はグリーン英国大使に対し、戦争行為の範囲に制限をつけることに反対し、イギリスの利己的な限定軍事行動要請に対して、参戦の大義名分は日英同盟の履行に置いていることを伝えた。これを受けたイギリスは10日、無制限的軍事行動を警戒して「帝国(日本)政府ニ於テ軍事行動ヲ見合セラレ度」と、参戦要請を撤回してしまった。 だが日本としても国策として一旦決定した参戦方針を取り消すことはできない。加藤外相は、「戦地を限定することを布告中に声明することはできないが、英国政府が希望するなら同様の証言を英国若しくは関係国に与えることに異議はない」とし、イギリスも「強いて宣戦布告中に戦地局限を記載する必要はないが、日本政府から領土侵略の野心がないことを保証されれば英国政府は納得する。」と譲歩した。こうして日英両国間の相互譲歩の結果、ようやく日本の対独参戦が決定したのである。 このように一度は日本に対する参戦要請を撤回したイギリスも、のちには本格的な戦争協力をくりかえし要請することになる。
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8月15日1915 一週間後の8月23日正午迄に無条件に応諾するよう対独最後通牒を発した。具体的要求は以下の2項目である。
1) 日本及び支那海洋方面からの独艦艇の即時退去。退去できない独艦艇は武装の解除 加藤外相は同日、在日仏露米各国大使とオランダ、支那両公使に対し、此の機会に領土を拡張する野心は存在しないことを説明し了承された。しかし日本の軍事行動に不安を感じていた英国は17日「日本の行動は、支那海を越えて太平洋まで拡大されることはなく、支那海以西のアジア水域や独領土以外の外国領土まで及ぶことはないと了解している。」との声明を日本に無断で発表した。日本政府を憤慨させつつも日本の軍事作戦を牽制した。8月23日に至るもドイツ側からの回答はなかった。同日1800 対独宣戦の詔勅が煥発せられ、対独戦に参加することとなった。 対オーストリア関係についても問題となった。両国間には紛争の種はほとんどなかったが、駐日オーストリア大使は27日、本国から日本退去の訓令を受けた。これを受けて日本側も在墺大使に引き揚げを打電、ここに日墺両国の外交関係は断絶し、事実上の戦争状態となった。
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青島は明治24年(1891)以来、清国北洋艦隊の基地となっていた小都市であった。明治31年(1898)、膠州湾地域がドイツの手にうつると青島はドイツ東洋艦隊の根拠地となり、近代的港湾施設が整備され、欧州的な大都市として上海、天津につぐ支那第三の貿易港に生まれ変わっていた。
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大正3年8月23日 ドイツに対して宣戦が布告されると、まず第一艦隊は主力をもって黄海から東シナ海北部にわたり敵艦の捜索と警戒、第二艦隊は独租借地である膠州湾を封鎖した。海軍の活動開始と相前後して参謀本部は、久留米の第18師団に動員令を下し、師団長神尾光臣中将を青島要塞攻囲軍司令官に、山梨半造少将を参謀長に任命、8月25日から逐次出発を開始した。 9月2日 海軍陸戦隊の先導のもと、山田支隊(第24旅団長山田良水少将指揮の混成1個旅団)が豪雨をついて龍口に上陸、師団主力も引き続き上陸を始めた。連日の暴風雨とそれに続く洪水や悪路に妨げられながら前進したが、糧秣の輸送が続かず、神尾中将も兵卒と同一の食事を採りつつ前進を続けた。上陸当初は若干の敵斥候兵と遭遇する程度であったが、、南進とともに敵兵の数は増え、火砲機関銃をもった数百の独兵と交戦するまでとなった。9月25日 師団主力は妨害を排除しながら前進集結を終了、後方補給も整頓されつつあった。
9月26日 師団主力が流亭に到着、攻撃前進を決定し青島攻囲戦を開始した。堀内支隊(歩兵第46聯隊を主力とする第23旅団)は大した抵抗を受けることもなく南龍口東方高地に進出、27日正午には、師団は李村河口から金家嶺付近に至る線を占領、28日には、青島要塞前進陣地である狐山から浮山に至る線への攻撃を開始するに至った。 要塞攻撃には不向きの騎兵聯隊は膠州から西南に進撃し、膠州湾の対岸に散会して膠州湾全域を掌中にした。この間、膠州湾の墺巡洋艦「カイゼリン・エリザベット」を中心とする艦艇による海上からの側面攻撃を受けて大いに苦戦したが、青島要塞は、第二艦隊による海上封鎖とあいまって日本軍によって全面包囲された。
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10月2日の四房山の戦闘は激烈を極めた。岩切見習士官以下の1個小隊の前哨に対し、奪還しようとするドイツ軍の執念はものすごく、約3個中隊が砲兵援護のもとに逆襲してきた。日本軍はドイツ軍の動きを察知して迎撃態勢をとっていたが、再度の敵襲に弾薬を使い果たし、戦死5、負傷6を出した。ドイツ軍は病院自動車で死傷者を収容していたが、なお死体の多くが残っていた。 日本軍は電信を使ってドイツ兵の死体収容についてドイツ側と交渉中であったが正式に日本軍にその処置を依頼してきた。このため10月12日1300から休戦状態となり、死体収容が開始された。また非戦闘員と中立国人の生命を憂慮される勅旨が届いたので、神尾中将、加藤第二艦隊司令長官の連名でドイツ側に伝達、ただちにドイツ側より丁重な回答があり、13日1000から磯村大佐とカイゼル海軍少佐の会見によって詳細が決められた。
非戦闘員受け渡しの内容は日露戦争時の旅順攻囲戦で行ったものとほぼ同じ内容であった。日本の瑞宝章を受けていたカイゼル少佐は礼儀正しく、別れる時には黒見で戦死した玉崎中尉の遺品を磯村大佐に手渡した。非戦闘員は海路によって受け渡されることになり、15日 退去者の受取人としてドイツ語のできる山田大尉がドイツ側ランチを迎えた。ドイツ軍使はベヒテスハイム海軍大尉で、奇しくも伊集院大将が独キール軍港を視察した時の案内担当者であった。ベヒテスハイム大尉はドイツ総督からの感謝の言葉を伝え、退去者の移乗が終わるとドイツのランチは静かに去っていった。日本軍は喇叭手が「別れの曲」を吹奏、両軍は互いに帽子やハンカチを振って別れを惜しんだ。
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日本軍は浮山-狐山の線を占領後攻略準備を着々と進め、10月29日に全軍行動を開始、天長節(大正天皇誕生日)の10月31日0630 海軍重砲隊の砲撃開始とともに、全砲兵、海軍艦艇も呼応して総攻撃が開始された。
@ 右翼隊 (長 浄法寺少将 第67、第34聯隊の3個大隊基幹) 攻撃目標は海岸堡塁 我が総攻撃が近いことを察知したドイツ軍は、ビスマルク砲台から第1、第2中央隊の後方に猛烈な射撃を集中、第一線に対しては機関銃・軽砲を夜間まで猛射しつづけた。0800 青島大港の造船所に続き大港東端の石油タンクから黒煙が天高くあがった。これはドイツ軍自身による放火とされており、神尾司令官は戦闘と無関係な放火に対して警告文を送った。このあいだにも第一線部隊は前進を続け、11月1日夜までに第一攻撃陣地の占領を終わり、第二攻撃陣地に向かって攻撃を続行した。 膠州湾にあった墺巡洋艦「カイゼリン・エリザベット」の攻撃は最後まで激しく日本軍の右翼隊を悩ませていたが、正木中佐の指揮する海軍重砲隊がこれに応戦して沈黙させ夜になって自沈した。11月3日には第二次攻撃陣地を占領、翌4日には第三次攻撃陣地への前進作業に主力を注ぎ、砲兵は主力をもって堡塁を、一部をもって砲台線と青島市街を砲撃した。特にこの日午後からの28センチ榴弾砲の威力は大きく、市街発電所に命中したため青島全市街は停電し闇夜と化した。一方でドイツ軍の猛射もすさまじく、我が攻撃前進は困難になってきた感があった。しかし11月5日になると、前進部隊は次第に敵の堡塁下に迫り、中には外壕の斜面に達して突撃路の掘削を開始する部隊もあった。各地区隊は11月6日までにほぼ第三次攻撃陣地を構築、突撃準備を整えた一方で砲兵は0600から砲撃を開始した。敵飛行機は同じ頃、青島を脱出して上海方面に去っていた。 11月7日0140 第二中央隊左翼部隊が中央堡塁を占領、0510には同右翼隊と左翼隊が台東鎮東堡塁と小湛山北堡塁を占領、以下次々と敵陣を陥落させ、0700には海岸堡塁が降伏した。この間ドイツ軍はいくつかの砲台を自爆させ、0630頃には気象台に白旗を掲げ軍使を派遣、会見ののち開城の通告を行った。 大正3年(1914)11月7日 青島要塞は陥落した。 11月16日には青島入城式と招魂祭を行い、ここに青島要塞攻略戦は完全に終結した。
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開戦と同時に膠州湾を脱出したドイツ東洋艦隊は南太平洋に出没し、しきりに海上通商を妨害していた。このため大正3年(1914)10月 日英海軍協同作戦協定が成立、第一、第二南遣艦隊と南北アメリカ沿岸派遣隊を出動させた。 これに先立ち、9月29日には独根拠地の一つであるヤルート島を砲撃ののち、陸戦隊によって無血占領した。これに続き10月19日までにサイパン島をはじめとする赤道以北の独領南洋諸島をすべて占領した。 洋上では、ホノルルに入港していた独砲艦「ガイエル」を日本艦隊が港外に待ち構えて武装解除を支援した。11月1日に英戦艦「グッドホープ」以下2隻の巡洋艦と遭遇、「ブレーメン」「ライプチヒ」の2隻を失っていたドイツ艦隊は、南米海域にあった。日本の第一南派遣支隊は、英戦艦「カーパス」「カーナボン」などとともにアルゼンチン南東沖で待ち伏せ、12月8日には「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」「ニュールンベルヒ」「ドレスデン」の4隻を撃沈した。 インド洋を中心に神出鬼没な行動で通商破壊活動を行っていた独巡洋艦「エムデン」も、英巡洋艦「シドニー」によって擱座させられており、12月8日をもってドイツ東洋艦隊は全滅した。
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欧州大戦も後半になると、ドイツは船舶の国籍を問うことなく攻撃する無制限潜水艦戦を宣言、連合国の船舶被害数は急激に増加した。日本政府の参戦基本方針は、膠州湾/青島要塞と独領南洋諸島の占領以外は、極東と太平洋の警備にとどめるというものであった。しかし、一度は日本の参戦に消極的であったイギリスも、戦争激化に伴い日本に対して一層の戦争協力を求めてきた。日本軍の地中海派遣やダーダネルス海峡への艦隊派遣などである。海軍部隊だけでなく11月7日には「日本陸軍が主要軍事作戦に参加し、欧州でイギリス軍とともに戦って欲しいというのが我々の希望である」と、日本陸軍のヨーロッパ戦線派遣まで要請してきた。 イギリスだけでなかった。ロシア、フランス、ベルギー、セルビアも日本陸軍のヨーロッパ派遣を求めてきており、英仏両国からは民間の言論界からも盛んに欧州派遣を求める声があがっていた。しかし陸軍の欧州出兵は我が国の運命にも重大な影響を有するので十分慎重な検討を必要とした。日本政府は審議の結果、国情に鑑み以下の理由から欧州派遣が至難であることを各国に陳述し了解を求めたのである。
@ 日本軍は西欧で作戦すべき編制装備を有していない。
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大正5年(1916)2月4日 グレー外相は駐英井上大使に駆逐艦数隻の地中会派遣を打診し、9日には駆逐艦隊のシンガポール方面への派遣を要請してきた。これを受けて日本海軍は、巡洋艦以下の艦隊をドイツ通商破壊警備のためシンガポールに派遣することとなった。イギリスの日本海軍派遣要請はその後も続いた。さらに大正6年(1917)1月11日 イギリス政府は地中海への艦隊派遣を要請し、ついに海軍は承諾して水雷戦隊の派遣を決定、同戦隊は地中海方面に出航した。
第1特務艦隊 長官・小栗孝三郎少将
第2特務艦隊 長官・佐藤皐蔵少将
第3特務艦隊 長官・山路一善少将 英国の要請を受けて艦隊を派遣した結果、戦後の講和会議において、山東省と赤道以北の独領諸島に対する日本の要求を英国政府は支持する、という英外相バルフォアの言質を獲得した。地中海のマルタ島を根拠地として活躍を開始した我が派遣艦隊は、東はエジプトのポートサイドから西はジブラルタル海峡まで駆け巡り、ドイツ潜水艦出没の危険を冒しながら連合軍の海上護衛に任じた。
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第二特務艦隊が単独で連合軍の海上護衛にあたった回数は350回に及び、護送した軍艦、輸送艦合わせて787隻、乗組人員総数75万人 うち643隻がイギリス船であった。この他連合軍海軍と協力して護送した商船の数を加えると膨大な量に上り、第二特務艦隊の1ヶ月の行動日数は26日 航程6000海里にも及んだ。この間、ドイツ潜水艦との交戦は36回、少なくとも13回は有効な攻撃を加えたものと認められた。損害は駆逐艦2隻損傷、戦病死者78名で、うち73名はマルタ島のイギリス海軍墓地に葬られた。 ゼノア沖の「トランシルバニア」号救助に際して、我が駆逐艦「榊」「松」の乗組員の勇敢で犠牲的な行動はイギリス人を感動させ、司令以下20数名にはイギリス国王から勲章が授けられた。また「桃」「樫」は、ケープホーン沖で雷撃された「バンクラス」号の全乗組員80名を救助した上に、沈没しかかった同船を曳航してマルタ基地に帰還したときは、同基地のイギリス将兵は熱狂して帰港を迎えたと伝えられている。 このように地中海警備についた日本艦隊の整然とした行動は各国からの称賛の的となったが、英国政府からの度重なる派遣要請とは裏腹に、‘やとわれ艦隊’と云われて現地で不当に冷遇、虐待されたことも少なくなかった。「永い植民地政策に麻痺した英国海軍の神経は、我が艦隊の少壮乗組員の感情を酷く傷つけた」(高木惣吉少尉のち少将)のである。
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