山東出兵と済南事件 概説
 The Shandong Intervention and The Jinan Incident


明治44年(1911)の辛亥革命以来、支那大陸は各地の軍閥による戦乱が打ち続いた。新生中国への胎動である。大正15年(1926)張作霖の率いる北方軍閥に対して、蒋介石率いる南方軍閥(国民党軍)が国家統一を目指して北伐を開始した。この北伐は各地に排外運動を引き起こし、あたかも「義和団の乱」を彷彿とさせ、北伐進行とともに華北の治安に対する列国の不安は高まった。我が国は、中国内戦に対する不干渉を基本方針としていたが、戦乱が山東省に及ぶにあたり「南京事件」「漢口事件」などの事態を迎え、在留邦人の安全と日本の権益保護のために出兵を決定した。出兵は止むを得ない措置であり、権益を有する列強諸外国からも歓迎されたが、第二次山東出兵では国民党軍と衝突する「済南事件」が起こった。
本出兵は大事には至らなかったものの、かえって中国の反日ナショナリズムを燃え上がらせ国民政府との関係を悪化したばかりでなく、満州の事態をも重大化する結果となり、満州事件に連なる素因を含むものとなった。

山東出兵 :北伐開始 南京事件 済南事件 第一次、第二次山東出兵経緯など
参考年表 :大正14年(1925) 〜 昭和3年(1928) 近代支那関連

昭和2年5月28日からの出兵を第一次山東出兵、昭和3年4月19日からを第二次山東出兵と称する。なお、昭和3年5月9日の増派決定をもって第三次山東出兵と区別することもあるが、第二次出兵に含める場合も多い。

===== 蒋介石による北伐 =====

大正14年(1925)7月成立した国民政府は、翌年4月 蒋介石を軍事委員首席に推挙し国民革命軍総司令に任命した。大正15年(1926)7月 国民革命軍(南軍)は軍閥打倒のため広東から進撃を開始した。革命軍総兵力10万、動員総数約5万である。これに対し北軍は、華南から華中に展開する呉軍25万、長江流域の孫軍20万、華北、満州には張作霖軍35万である。

支那軍閥布陣

国民革命軍の作戦方針は、まず華南の呉軍を破り、ついで孫軍を撃ち、最後に馮玉祥の国民軍と連携して張作霖に決戦を挑む各個撃破であった。作戦は、華南、華中では中国共産党(中共)の指導する労農大衆の協力もあり順調に進み、南軍は南京に臨む地点まで到達していた。

===== 権益を有する列強との軋轢 =====

揚子江が支那内戦の舞台となろうとしたとき、北伐は列強諸国との問題を複雑にした。列強は揚子江筋に多くの居留民と権益を有していたうえに、内水航行権(自国の船舶が川、湖沼を自由に航海できる権利)、軍艦遊弋権(居留民、権益保護のため、軍艦が警戒行動のできる権利)を掌握していたので、この方面が内戦状態となった場合、列強ことにイギリス、アメリカ、日本三国との間にトラブルを発生させずにはいなかった。

しかも国民革命軍(南軍)には多くの共産分子を含んでいた。彼らは北伐開始とともに戦術を転換し積極的に北伐に加わっていたが、革命と排外の意識の下に北伐を利用して各地に労働運動を勧め、一挙に共産革命の主導権を握ろうと画策していた。列強との問題はいよいよ複雑化せざるをえなかったのある。
そして大正15年(1926)9月5日には、重慶の下流にある万県で、呉軍(北軍)対イギリス砲艦との間に砲撃戦が勃発(万県事件)した。この事件以来、漢口の上下流で列強の艦船が沿岸の支那兵からさかんに射撃される事件が続いた。それに対して日本を除く各国の軍艦はその都度応射して双方に死傷者を出していた。

===== 幣原外相による協調外交 =====

日本は万県事件以降「支那国内の各種党派に対し、不偏不党の態度を持続し、実力者と折衝して在留民保護の目的を達成」と、幣原喜重郎外相が訓令していた。また漢口の高尾亨総領事も、「現に交戦中の地域内で危険に遭遇しても、文句を言う方が間違いである」との見解のもとに、紛争の発生防止に務めていた。従って南軍も日本側に対しては低姿勢で、日本船の射撃事件がおこるたびに謝罪し、命令を出して交戦禁止を厳命した。
幣原協調外交はすくなくともこの時点では一定の効果をあげていた。

===== 南京事件 =====

昭和2年3月23日夕刻 北軍の敗残兵は南京城内になだれ込み退却を開始した。各国領事館はこれら敗残兵を警戒していたが意外にも外国人にはほとんど手出しをしなかったので、各国居留民の艦船への退避は無事に完了した。23日夜、我が領事館警備のため荒木亀男(ひさお)大尉以下の陸戦隊12名は、領事館正面に機関銃を据えて警戒にあたった。米英の領事館もそれぞれ10〜20名の警備兵を配していた。24日を迎え、森岡正平領事は危険は回避されたものと判断、少数の警戒兵力という現状と協調外交の精神に鑑み、荒木大尉に要求して正門を開き、機関銃を廃して南軍(蒋介石軍)に対して敵意のないことを示した。

ところがそれは全くの認識不足であった。青天白日旗をかざして入城した南軍は、一斉に外国領事館やアメリカ系の金陵大学などに侵入して略奪と暴行を開始したのである。日本総領事でも病臥中の森岡領事の寝室に侵入され寝巻や夜具まではぎとられ、同室の根本博少佐(のち中将)は負傷、木村領事館警察署長は所持金を全部奪われた上に腕に銃撃を受け、後藤一等機関兵は死亡した。領事館に避難していた残留日本婦人は「幾回となく忍ぶべからざる身体検査を受け、叫喚悲鳴聞くに忍ばず」(森岡領事)で、これには領事夫人も含まれていたとされる。
イギリス領事館では総領事が負傷、医師と港務長が射殺された。アメリカは金陵大学のウィリアムズ博士が死亡、ほか二名が負傷、フランス、イタリアも各1名の死亡者を出した。略奪は徹底的に行われ、領事館だけでなく外国人住宅も被害は同様であった。

この凄まじさに対して各国の若干の警戒兵は見ているほか仕方がなかった。荒木大尉以下も涙をのんで武装解除に甘んじた。(後に責任を負って荒木海軍大尉は自決を図った) 1530 ついに米英の軍艦は城内に向けて砲撃を開始した。我が駆逐艦隊にも協力要請があったが、第24駆逐隊司令吉田健介大佐はこれを拒否した。これは若槻内閣が幣原外交の不干渉政策による統制と、日本領事館の位置が米英領事館よりも遠方にあったことが理由とされている。ともかく米英の艦砲射撃と増援の各国陸戦隊によって略奪の嵐は去った。

3月25日夕刻 森岡領事以下の避難民百数十名は無事に日本の警泊艦に移乗、上海に向けて南京を立ち去った。米英の居留民が南京を引き揚げたのもほとんど同じ時刻であった。

===== 漢口事件と4.12反共クーデター =====

続く4月3日 漢口でわが水兵と中国少年との口論がきっかけとなって、暴民と海軍陸戦隊との間に衝突事件が発生、海軍は自衛のためついに発砲のやむなきに至った。漢口事件と呼ばれた。さらに4月7日には、上海でイギリス軍装甲車隊と便衣隊との戦闘の際、わが陸戦隊も便衣隊と交戦し、翌8日には軍艦「八雲」の陸戦隊730名が揚陸した。
南京事件の背後には中共の煽動があったといわれ、蒋介石を苦境に立たせて失脚させようとしたコミンテルンの指令によるものとも言われている。いずれにせよ蒋介石が容共政策をとる限り、この種の事件の再発と、列強の介入は避けられないものと思えた。
4月11日 日英米仏伊の関係5ヶ国は、南京事件の列国覚書を国民政府に突きつけたが、翌12日、蒋介石は上海で反共クーデターを決行、中共主体の武漢政府に対抗して、新たに南京に国民政府を樹立した。これに北京にある張作霖政府を加えれば中国には同時に3政府が乱立し、互いに激しく覇権を争うことになった。

===== 幣原外交の終焉 =====

このころ日本では金融恐慌がおこっていた。加えて南京事件、漢口事件などの侮日事件に対して、内政不干渉主義の幣原外交は「対華軟弱外交」であり、居留民保護を犠牲にして、必要以上に支那に同情的である、としてはげしい世論の非難を浴びていた。このため若槻礼次郎内閣は総辞職し、4月20日 政友会総裁田中義一が内閣を組織した。田中は外務大臣を兼任し、対中国外交の刷新をはかった。特に北伐の進展を注視し、南京事件の失敗を繰り返さないことに腐心した。4月22日 田中首相は施政方針演説で、支那における共産党の活動は日本としては無関心ではありえないと発表した。

===== 第一次山東出兵 =====

上記のように蒋介石の上海クーデターによる中共との分裂によって、北伐は一時停滞するかに見えた。しかし南京政府(蒋介石軍)は北伐を続行、競うように武漢政府もまた北伐に参加した。5月になり武漢軍(南軍)は奉天軍(北軍)と戦闘を交え、5月下旬には戦闘が山東省に波及することはもはや時間の問題と見られていた。当時山東省には約1.7万人の在留邦人がおり、南京事件の再発はなんとしても防がなければならなかった。

北伐

5月24日 白川義則陸軍大臣は、閣議で山東出兵の必要を説き、居留民現地保護の方針は決定された。済南が南京事件の二の舞になることを恐れたのである。しかし財政上大規模な出兵は困難であり、支那側を刺激することも怖れて、満州から歩兵第33旅団基幹を青島に派遣することとなった。28日 「在留邦人の安全を期する自衛上やむを得ない緊急措置に外ならず、支那及びその人民に対し非友好的意図を有せざるのみならず、南北両軍に対してもその作戦に干渉し、軍事行動を妨害するものにあらず。」と政府声明を発表した。 その後膠済鉄道沿線の情勢が悪化してきたので、7月には第10師団長指揮の歩兵第8旅団と野砲兵第20聯隊第2大隊などを青島に急派することとなった。

8月に入り蒋介石は徐州付近において北軍と決戦を試みたが、大敗を招き、8月14日には下野を宣言するに至った。この状況に鑑み政府は8月24日の閣議で撤兵を決定、9月8日撤兵を完了した。

===== 東方会議 =====

昭和2年6月27日 対支政策確立のため東方会議が東京で開かれた。そして7月7日「対支政策綱領」を訓示し、支那本土と満蒙は趣を異なるという根本方針を確立した。中でも、「必要ニ応ジ断乎トシテ自衛」という現地保護方針と「機ヲ逸セズ適当ノ措置ニ出ツルノ覚悟」を必要とするという宣明は、東三省の自治・独立を示唆するもので、支那における民族自決、国権回復といずれは衝突するものであった。この会議が第一次山東出兵の最中に行われたことで、支那の排日運動も燃え上がり、満州事変の生起を運命づけるものとなった。

田中総理は、蒋介石の南京政府が共産党を切り離して支那全土を統一することを期待していた。一方、我が権益の及ぶ満州については、満蒙五鉄道敷設などの諸懸案を張作霖に同意させることが必要であると考えていた。これらの権利が条約の形で保証されるなら、中国革命が満蒙に波及してきても、我が権益保持は可能であろう。ところが諸懸案の具体化が全く行き詰まる間に北伐再開となり、第二次山東出兵、済南事件、張作霖爆死事件と情勢は悪化の道を辿るのであった。

===== 第二次山東出兵と済南事件 =====

国民軍総司令に復帰した蒋介石は、4月10日、徐州東西の線を発して北伐を再開した。北方軍とくに張宗昌、孫傳芳両軍の戦意は衰え、戦乱が再び華北に及ぼうとしていた。4月16日 済南駐在武官酒井隆少佐は、出兵を決意すべき時機到来との意見を具申、さらに参謀総長鈴木荘六大将に状況を打電した。4月19日 閣議で第二次山東出兵を決定、兵力は天津から歩兵3個中隊、内地から平時編制の第6師団(師団長福田彦助中将)を派遣、居留民の現地保護に任じた。

臨時済南派遣隊は、4月20日夜済南の警備につき、第6師団先頭部隊は25日青島に上陸した。一方退却する北軍に乗じた南軍も5月1日以降続々と済南に到着、その数は4万に達した。2日に済南に入城した蒋介石総司令は、南京駐在武官の佐々木到一中佐を通じて、同地の治安維持は自らあたるから、警備区域の撤廃、青島からの増兵中止等を要請してきた。福田師団長はこれに対し、日本政府からの任務に基づき行動するのであって貴軍によって行動を左右されるものではない、として要請は拒否した。この時点での済南は波乱含みではあったものの一応平静状態にあった。

5月3日 0930 日本人住宅街に支那兵が乱入したとの報告が済南日報社から入り、久米川好春中尉以下が済南日報社に向かった。此れより先、日本の総領事館巡査二名が現場に到着していたが、彼らは南軍兵によって暴行を受け佩剣を奪われていた。そこに久米川小隊が到着したため支那の暴兵たちは逃走、捕えようとした我が軍に対して発砲した。これがきっかけで1000双方の間に戦闘が開始された。一度口火が切られると、排外的な支那兵と、外地遠征に興奮した日本兵の間には、いたるところで戦闘が交えられるようになった。小部隊の衝突はたちまち拡大、商埠地各方面で戦闘が開始され、市街戦が随所に展開された。これが「済南事件」の発端であった。

福田師団長は、南軍の申し出に応じ停戦に努めたが、南軍側の命令が徹底せず、止む無く1410商埠地内の南軍の掃討を命じた。しかし1500になり積極的掃討戦を中止、再び停戦交渉を進めた。夜になって銃声はようやく衰え、停戦協定が成立、5月4日午前中に南軍を商埠地外に撤退させることができた。日支両軍ともに指揮官は無益な闘争を制止していたにも関わらず、末端での双方の敵愾心から拡大に至ったものである。これは前年の「南京事件」やそれ以前の支那の態度が背景にあったと云えよう。

この「済南事件」で日本の守備線外に離散していた12名の居留民が虐殺された。ほかに南軍の爆弾によって死亡した男性2名、暴行侮辱を加えられた者30余名、陵辱された女性2名、掠奪被害戸数136、被害人員約400であった。一方南軍側では12名が殺害されたとされた。

===== 陸軍中央部の反応 =====

中央部では、済南における日支の衝突事件を知るや、増兵の必要を感じ、混成第28旅団と臨時派遣飛行隊を急派し第6師団長の指揮下に入れた。5月5日になって、南軍のために惨殺された我が居留民男女の死体9が発見されると軍民の憤慨は頂点に達した。ここにおいて福田師団長は国軍の威信を保持するために、蒋介石総司令に対し、12時間の期限つきで最後通牒を発した。しかし誠意ある回答に接しなかったため、5月8日 実力をもって済南付近と膠済沿線の掃討を開始した。既に南軍主力は黄河を渡河し北伐を続けたあとであり、大きな戦闘を交えることなく目的を達し、5月11日には済南を占領した。

8日の攻撃開始を受けて軍中央部では、居留民保護をまっとうするため、第3師団に動員を下令、さらに支那派遣軍の定期交代部隊(歩兵5個中隊)の繰り上げ派遣を命じ(第三次山東出兵)、万一を考慮して海軍部隊にも増派を命じた。しかし第3師団全部が青島上陸を終えたのは、勝負の決した後の6月5日のことであった。また事件後、幾多の紆余曲折を経て日支の妥結を見たのは、事件後1年近い昭和4年3月28日のことであり、派遣軍の撤兵が完了したのは同年5月20日のことであった。

山東出兵は後年の支那事変勃発の動因と似ている面がある。しかし大事に至らなかったのは、主として南軍が北伐の途中であり日本軍との衝突を極力回避したことと、支那軍民の抗日思想が破局にまで達せず、蒋介石の統制が可能であったからである。しかし南京政府をして対日悪感情を深刻にしたきわめて重大視すべき事件でもあった。

===== 満州事変前夜 =====

5月末 北軍(奉天軍)の戦況はますます不利に陥り、北京撤退を決意した張作霖は特別列車にて奉天に向かった。昭和3年6月4日 列車は瀋陽駅を間近に徐行を開始した。やがて列車は満鉄線とのクロス地点にさしかかったその時、轟音一発、列車は爆破された。時刻は午前5時23分、張作霖はほとんど即死の状態であったといわれた。
張作霖爆死の四日後の6月8日、国民革命軍は正式に北京に入城して蒋介石は宿願の北伐を完成、南京を首都とし、北京を北平と改めた。

昭和3年7月7日 国民政府は、今まで列国との間に結んだ不平等条約の廃棄を宣言し、日本に対しては7月19日 明治29年に締結された日清通商条約の廃棄を一方的に通告してきた。これは次第に高まる排日運動を背景に、国民政府が示した対日攻勢の表出であった。



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