シベリア出兵 概説   大正7年8月2日〜大正11年10月25日
 The Mobilization of Troops to Siberia


第一次世界大戦の最中、大正6年(1917)11月成立した過激派によるソビエト政権はドイツと休戦し、翌年3月には単独講和するに至った。これによって東部戦線にあったドイツ軍は西部戦線に転用集中できることとなり、事態を恐れた英仏両国はロシアの内戦に干渉、ウラル戦線を形成するため日米両国に出兵を要請した。この出兵は連合国による協働政略出兵ではあるが、各国の政情とその政略目的に大きなくい違いがあり、各国にとっても意味のない出血に終わった。殊に日本は、事態の見通しと撤兵時期を大きく見誤り、酷寒の地での苦闘と2千余の生命、9億余の戦費を無にしながら軍事的、政治的にほとんど得るところなく撤兵した。
極東ロシア領及び北満に安全地帯を設定して大陸国防態勢を強化することは、我が国にとって日露戦争以後の宿願であり、東亜の平和を維持する基盤であると考えられていた。しかし東亜における欧米の既成勢力は根強く、我が国は日米協調に心を砕いたにも関わらずこのような行動は対日不信を強め、日米の間に溝を深めることとなった。

===== ロシア革命に対する干渉 =====

大正6年(1917)3月 ロシアの二月革命(露暦)と続く十月革命によって、ボリシェヴィキ(Bolsheviki)は首都の拠点を占領、臨時政府を放逐、閣僚を逮捕(ケレンスキーは脱出)し、最終的に権力を掌握した。翌年1月までにシベリアを含む大部分をボリシェビキが掌握したが、反革命勢力も少なくなく各地で武力衝突が発生していた。

ボリシェヴィキによる単独講和の動きで東部戦線の崩壊は時間の問題となっていた。東部戦線が崩壊すれば、ドイツ、オーストリア側は東部戦線の兵力を西部戦線に移動集中できるうえに、ウクライナ穀倉地帯を中心とする各種資源を活用でき、海上封鎖によって窮地に追い込まれていた独墺側の態勢が一気に逆転する可能性がでてきたのである。さらには集積された対露援助物資が独墺側に流出する危険性や、100万人以上にも及ぶ独墺軍捕虜の再武装化などの脅威も考えられ、事態を一層深刻なものとした。
連合国側は、共産革命の脅威と東部戦線崩壊による大戦への影響を深刻にとらえており、その影響を最小限度に抑えるか、ロシア・ボリシェヴィキ政権をいかにして連合国側に引き止めるか、ということに努力を傾注するのである。

===== チェコスロバキア軍の反乱 =====

チェコ人(Czechs)とスロバキア人(Slovaks)は、民族的独立を願い、多年にわたるオーストリア帝国の支配から脱しようとしていた。そのため第一次世界大戦にオーストリア軍として 出征したチェコ軍は、好機到来として意識的にロシア軍に投降、積極的に露軍に協力していた。その数は約5万人にのぼった。ところがロシアが「ブレスト・リトフスク条約」で単独講和を結んだため、その立場を失い孤立した存在となった。そこで大迂回ではあるがシベリアを経由して西部戦線に参加することになり、連合国側の同情とロシアの承認(ペンザ協定)を得て、4月1日から行動を開始した。しかるに共産過激派政府に対するドイツ、オーストリア側からの圧力と、過激派軍からの妨害により、全力をウラジオストク(浦塩)に集結することはできない状況となった。

5月14日にはチェコ軍とすれちがった独墺捕虜との間で事件が発生(チェリアピンスク事件)、これをきっかけに武装解除を迫る共産過激派と拒絶したチェコ軍との間で、シベリア各地で戦闘が開始された。この情勢に鑑み米国世論はチェコ軍に多大な同情をよせ「浦塩のチェコ軍に救助の手を差し伸べ、西部シベリアの友軍と連絡させる」目的で、「日本から兵器を供給し浦塩守備のため日本と米国から同数の兵力7000を派遣したい」と、目的、兵力、地域を限定した協同出兵を提議してきたのであった。

===== 出兵経緯と各国の思惑 =====

チェコ軍の事件は英仏などの陰謀であるとの説が一部に存在する。チェコ軍団の西部戦線転用は口実であって、実は赤化革命の波及を恐れる各国が共産過激派政権を転覆させるため内乱を引き起こしたというものである。真偽のほどはともかく、チェコ軍による騒乱は連合国側に歓迎された。東部戦線再建の構想が浮かび上がるとともに、共産過激派に対する 国際的な干渉戦争を開始するための有力な要因となったのである。

米国の提案に対し日本政府の意見は、自主的出兵論(外相後藤新平、元老山縣有朋、首相寺内正毅)と対米重視論(政友会総裁原敬、牧野伸顕)の二つに分かれた。結局日本は、米国の主張を考慮しつつも、日米同数兵力派遣は、あたかも列国が日本の野心を疑い、これを掣肘する考えで日本国民の感情を害するから不同意である、あくまで作戦用兵上の見地から必要兵力を決定すべきであると提案、さしあたり軍司令部と第12師団を派遣し、次いでザバイカルに第3師団を派遣することにした。

シベリア出兵における各国の利害を一瞥すると、英仏両国にとっては東部戦線崩壊による西部戦線への重圧を軽減し大戦に勝ち抜くことであり、米国はそのためロシア革命には干渉しない範囲でバイカル湖以東においてチェコ軍を救援することであり、日本は近隣である特殊事情を主張、ドイツ軍とソビエト共産勢力の東漸を阻止するためバイカル湖以東のシベリアに緩衝地帯を構築することにあった。従って英仏両国は、日米両軍をできるだけバイカル湖以西に引き出し独軍の牽制を期待したが、日米両軍は出兵範囲をバイカル湖以東に限定していた。つまりシベリアへの出兵自体は各国の利益が共通していたが、その他の狙いは全く異なっており、結局は呉越同舟であった。

===== 各国軍のウラジオ出兵 =====

大正7年8月2日 日本政府は出兵を決定、ウラジオ派遣の連合軍の編成は、大谷喜久蔵大将を浦塩派遣軍司令官として日本の第12師団(大井成元中将)、米軍2個聯隊(スタイア大佐)、英軍1個大隊(ジョン・ワード中佐)、仏軍1個大隊半(ピション中佐)からなり、こののち支那は2個大隊、伊軍は1個大隊を編成し連合軍に加わった。また我が軍はこれとは別に満州方面から関東都督中村雄次郎中将指揮下の第7師団(藤井幸槌中将)ついで第3師団(大庭二郎中将)が編成されていた。
連合軍及びチェコ軍団は、果敢な進撃によってわずか2ヶ月たらずの間にバイカル湖以東、黒龍鉄道全線を占領した。この勢いに支援されて、シベリアの政権はオムスクの反革命勢力であるコルチャーク政権に帰し、チェコ軍の背後の安全は確保された。

西伯利出兵要図

英仏軍は、その主張するウラル戦線構築のためチェコ軍とともにウラルに向かい更に西進を進め、一方の日米軍はバイカル湖以西には不出兵の態度を表明した。日米両軍とも英国の西進の勧告に対し、ウラル戦線の再構築は不可能と判断していた。
大正7年11月11日 世界大戦は終結し、休戦条約が締結された。連合軍による軍事行動はようやく一段落を告げた。日本軍はバイカル湖以西に進出する意図はなく、米軍、支那とともに治安維持のために駐兵を続けることになった。しかしこの行動は、英仏、米国のみならずコルチャーク反革命政権にも満足を与えず、いたずらに疑惑を持たせるものであった。

===== 田中大隊の全滅 =====

ブラゴエチエンスクとアレキセーフスクを中心に守備していた第12師団の山田支隊は、過激派軍が兵力を結集して両市を奪還しようと企てていることを知り、在ハバロフスクの師団直轄部隊田中大隊(田中勝輔少佐 歩兵2個中隊、機関銃1個小隊)の増援を受けて、支隊主力をもって南方から、田中大隊をもって北方から敵の退路を遮断する挟撃作戦を計画した。 アレキセーフスクに到着した田中大隊は、地理・政情に不案内なため、敵情捜索の目的をもって香田少尉指揮の第10中隊の1小隊をソリ16台に分乗っせて先発させたが、伝令によって小隊全滅の悲報がもたらされた。田中少佐は状況を支隊長に報告するとともに2300 伝令を道案内に150名を率いて出発した。

大正8年(1919)2月26日0600 濃霧が立ち込める森林内で不意に約2000の過激派軍に遭遇、戦闘を開始した。しかし田中大隊は無勢で戦死者も増え、機関銃隊長の林大尉も倒れ、敵の銃火は機関銃座に集中した。激戦は二時間に及び、田中少佐は胸部貫通銃創を受けたがこれに屈せず部下を指揮し、正午まで悪戦苦闘を続けた。しかし本隊は来たらず、激闘6時間、ついに田中少佐は軍刀で自決、150名の部下とともにシベリアの荒野に全滅したのである。

===== 各国の撤兵 =====

日米提携を重視していた原敬内閣は、派遣軍総数を引き下げ米国にも配慮したため、一応共同出兵は継続されていた。米国内にも過激派の東進を阻止するため所要の干渉を加えるべきであるという意見も強かったのである。ところが対独講和成立とともに、英仏による反革命政権であるコルチャーク政権への支援は弱化し、英仏伊軍は逐次東方へ退却を始めた。増大するボルチェビキ過激派勢力には抗しきれず形勢は急転しつつあった。

大正8年10月 オムスクは陥落し反革命の牙城は崩壊、翌年2月コルチャークは過激派によって銃殺刑に処せられた。このオムスク陥落は、米国内にあった反革命政権援助の空気を冷却させた。これより先の大正8年10月 英軍は既に撤兵に決し、大正9年1月には米国政府はシベリア派遣軍の撤退を通告、4月までに全部隊の撤収を完了、支那軍は7月、仏軍と伊軍は8月に撤兵完了した。

===== 三転した出兵目的 =====

反革命勢力の勢威衰えるに従い我が陸軍中央部は、シベリア各地の政権も結局は革命勢力の掌中に陥るものと判断し、これを過激派とさせないために、過激派政府と分離した政権を確立させ極東ロシアの政情を安定させようとした。浦塩派遣軍は極東各地の政変に対しては不干渉の立場をとり、軍隊駐留地で過激派的施策が実施された場合は、これを防止することに努めることにした。
ところが過激派勢力の東進に伴い、極東各地の過激派が連携して決起する状況となり、我が企図も効を奏しなかった。加えてチェコ軍の帰還輸送も進捗したので、大正9年3月 出兵目的を「国防自衛・居留民の生命財産の保護」に変更した。出兵の目的が「チェコ軍救援」「コルチャーク政権援助」「居留民保護」と三転したのである。
連合軍から取り残された派遣軍はひとり苦戦を続けた。その最中に起こったのが尼港事件であった。

===== 尼港事件 =====

日本軍と反革命軍の掌中にあったニコライエフスク(尼港)は、総人口は1万5千人で在留邦人も多く、領事館が開設されていた。大正8年5月以来居留民保護のため、石川正雅少佐指揮の第14師団第2聯隊第3大隊の二個中隊約300がホルワット指揮下のロシア軍350とともに治安維持に任じていた。秋になりコルチャック反革命政権の敗色が表面化するにつれ過激派の活動は活発化し、同年末にはトリアピツィン率いる過激派軍は、朝鮮、中国人を含めると2000名を数えた。翌年には形勢はさらに悪化、周辺部落はことごとく過激派の勢力下となり、尼港占領を目指して市街を包囲、砲撃を開始するまでとなっていた。

大正9年(1920)1月22日 赤軍過激派約300は対岸から渡河し尼港に攻撃を開始するも我が守備隊に撃退された。1月24日 過激派からの軍使が講和を求めてきたが、守備隊長石川少佐は提案を拒否し、日本人自衛団とともに警戒を厳重にした。全般情勢が不利なうえ、師団主力との連絡が途絶えた日本軍守備隊は上級司令部からの訓令もあって2月24日 一時妥協が成立し、休戦協定の協議に入った。
しかし過激派軍は市内に侵入するや、停戦協定を無視し、反革命ロシア軍将校や有産階級者たちを投獄し略奪を行い、治安は一気に乱れた。3月8日になり、石川少佐と石田寅松副領事は過激派指揮官を訪ね協定違反を抗議したが、逆に12日正午を期限に武装解除を要求してきた。解放戦線の常套手段で、赤軍の言う「平和」は単なる時間稼ぎに過ぎなかった。また現地の実情を把握しないまま発令した上級司令部訓令が命取りになったとも云えよう。
日本軍は在郷軍人自警団を会わせて約400名、赤軍は叛旗を翻したロシア軍、労働者を含めて約4000名に膨れ上がり、市内各所に陣取っていた。

武装解除に応じないと見た過激派が13日を期して総攻撃をかけるという情報を得た石川少佐は、12日0200を以って夜襲を敢行することに決し、過激派司令部に先手の奇襲をかけた。緒戦の市街戦は成功したが天明とともに過激派軍は勢力を増し、その猛攻を受けて死傷者続出、中隊兵舎まで後退を余儀なくされた。13日には領事館守備兵は戦死、石田副領事は家族とともに自決した。包囲された中隊兵舎では、河本中尉以下50名が4昼夜にわたり奮戦していたが、17日歩兵第27旅団長から、無益な戦闘を中止するよう赤軍経由で訓令が届けられた。事ここに及んでの戦闘中止は降伏同然と、男泣きしながら訓令に従った。日本軍官民はその後武装解除され投獄された。河本中尉は欺かれたことを知ったが、いかんともすることはできなかった。
一方日本軍による尼港救援活動は既に開始されていた。5月になり奪還作戦が開始されると、不利を悟った過激派軍は撤退を開始、撤退に先立つ大正9年(1920)5月25日には市内を焼き払い、反過激派を虐殺、収監していた日本人136名をも皆殺しにした。

この事件は「尼港の惨劇」として世界中に報道された。病人、一般居留民を含む虐殺事件だけに日本人のうけた衝撃は大きかった。
死者は軍人351名、居留民384名の多きに達した。

===== シベリア撤兵 =====

極東ロシア領では群立した各政権がようやく統一し、チタに極東共和国が成立、友好政権成立の見込みはなくなった。9月には浦塩集中のチェコ軍は総員引き揚げを完了、総数7万余にのぼった。政府は、駐兵の弊害がますます大となったため加藤友三郎内閣は大正11年(1922)6月23日撤兵を決定、8月26日から帰還を開始した。10月25日 最終部隊の浦塩出港とともに撤兵を完了した。
参加将兵は約24万、戦死者約5000名(3000名?)、負傷者約2600名 大正7年8月の出兵以来4年2ヶ月で、大東亜戦争よりも6ヶ月も長期の出兵であった。

===== シベリア出兵の結果 =====

日本はシベリア出兵の終始を通じて、極東赤化の防止と、北辺からの脅威の排除、北満への勢力扶植を念願した。ところが北満への進出と同方面の列国への門戸の閉鎖は、列国に強い猜疑心を起こさせ協同出兵は失敗に終わった。また共産政権の実力に対する判断の誤りはソ連領土内への無理な軍事行動を長期に継続させ、いたずらにソ連政権からの不信を買った。

シベリア出兵は我が国防史における暗黒のページである。駐兵4ヵ年、戦費9億円、軍司令官を代えうること3回、その間戦争目的を変更すること3回、領土は問題外であるが、勢力圏的にも殆ど得るところなく、而して忠勇なる将兵は、シベリアの荒野にいわゆる過激派なるものと戦い、しかも兵力不足、戦略不徹底のために、尼港虐殺事件、田中大隊全滅、大川大隊全滅の惨事を惹起し、外に我が野心を猜疑され、内に国民の不満懐疑を累さね、遂に一物を得ずして撤兵したる、悲しむべき大事件である。           伊藤正徳 国防史(昭和16年刊)

シベリア出兵で日本軍が得たものは、チェコ軍からの感謝とシベリアの詳細な兵要地誌、寒地作戦の体験だけであった。



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