支那事変 概説1
 The China Incident


昭和6年に勃発した満州事変は、日清・日露戦争以来の我が国の利権を守りたい、とする国民の率直な願望を背景にした現地陸軍の一部が、排日運動に抗して自衛権を行使した紛争であった。 しかし満州国の建設と支那北部に進出を伺う軍事優先の大陸政策は、支那への利権獲得を狙う英米と、伝統的南進政策のソ連による対日圧迫を生み出した。
そして勃発した支那事変は、米英ソと結託して抗日戦線を築き我が権益を犯す蒋介石政権に対し、制裁を加え反省を求めるべく戦われたものである。これは実に複雑な性格を有しており、解き明かすのは当時の支那大陸を巡る欧米各国の目論見を考察しなければならない。表面上は日本と蒋介石の戦だったが、そこには米英ソ中共の戦略が錯綜していたのである。我が国は、日・満・支(汪兆銘政府)一体となった東亜新秩序の建設を目指したが、大東亜戦争の敗戦とともに挫折した。 その結果、蒋介石は台湾へ敗走、米の全面撤退、英は香港を残して撤収という結果を招き、ソ連の進出・中共の勝利で幕切れとなったのである。

支那事変1 :支那事変の背景 蘆溝橋事件 事変の本質 など
支那事変2 :上海会戦 南京攻略戦 トラウトマン工作 など
支那事変3 :徐州作戦 武漢作戦 広東作戦 など
支那事変4 :南寧作戦 海南島作戦 援蒋ルート 米英ソとの関係 など

===== 国民党と中国共産党の抗争 =====

1917年に成立したソビエトは、世界革命を目指す国際機関コミンテルンを創設、1921年には中国共産党(以下中共と記す)が結成された。当時の支那は弱体政権が分裂し、中央政府は存在せず外債は支払えず、国家としては全くの無政府状態であった。 (1911年の辛亥革命から1949年の中華人民共和国成立までの約40年間、支那は分裂と内乱が続いた。)その中で中共はソ連の全面的支援のもとで大きな勢力となっていった。一方孫文率いる国民党はこれと安易に提携して各地の軍閥を討伐しようとして1924年第1次国共合作が成立した。国民党の第1回全国大会では連ソ、容共、農工扶助の政策を発表、選出された中央執行委員24名のうち3名が共産党員であった。

合作から3年半後、中共の煽動による暴動事件に反共姿勢を明確にした国民革命軍総司令・蒋介石は、上海で反共クーデターを挙行、南京に国民政府を樹立した。 各地の軍閥を打倒した蒋介石軍は、次いで中共軍の殲滅に向う。やがて両者は抗争状態となり国府軍の攻勢の前に苦戦を強いられた中共軍に対し、コミンテルンは第7回大会(1935年)で、中共は国民党と妥協し日本軍と戦えとの戦略を打ち出す。 そのころ満州国が建国され(1932年)、支那側からは排日禁止令の公布、国民党との間には梅津・何応欽協定が結ばれ北支は中立地帯であり、日支関係は安定時期にあった。

1930年から5次にわたる掃共戦に敗退を続けた10万の中共軍(紅軍)は、いわゆる大長征の途についた。山西省まで追い詰められた中共軍は、攻撃に向った国府軍の第1線である張学良の東北軍と揚虎城の西北軍に対し「内戦停止・一致抗戦」を呼びかけた。 この中共/毛沢東らによる民族統一戦線づくりは、「中国人は中国人とは戦わない」という必死のスローガンによって戦意喪失に成功、捕虜にした東北軍兵士を洗脳して帰隊させるという作戦は、満州を追われていた張学良にも影響を及ぼした。
1936年6月ごろになると張学良らは周恩来と秘密に会談し、抗日のための国共合作について協議を始めるに至り、以降中共軍と東北・西北軍は現状を維持し戦闘を停止していた。 業を煮やした蒋介石は、督戦のために西安に乗り込んだ。

===== 西安事件と国共合作 =====

1936年12月12日 中央の要人らとともに西安・華清池にいた蒋介石を、張学良・揚虎城らは謀議によって逮捕、監禁し中央軍の武装を解除した。 このクーデターは直ちに中共軍にも伝えられ、毛沢東、周恩来らは蒋介石を人民裁判にかけよ、と主張した。だがソ連コミンテルンの指令は‘日本の脅威に対して中共が自力で立ち向かう力はない。蒋介石を殺してはならない’ として蒋介石の釈放を指令した。

一方監禁された蒋介石は張学良らの要求を強硬な態度で拒絶し、事情を知った一般世論からも張学良は強い批判を浴びることとなった。また南京の国民党首脳は、西安とは如何なる交渉も行わず、蒋介石の救出と張学良の討伐とを決定。情勢の悪化を悟った張学良は中共側と局面打開を協議、西安に向った周恩来、張学良、蒋介石との3者間で秘密の談合が行われた。この会見で蒋介石は何一つ文書には署名しなかったが、その後の展開から蒋介石の生命の保証と引き換えに南京帰還後に内戦停止、一致抗日に努力する、といった密約が行われたことは容易に想像できる。先ごろ死亡した張学良は何も語ることなく、真相は今なお不明である。
蒋介石が釈放されて南京に帰った1ヶ月後、国民党政府と中共とのあいだに協定が結ばれた。10年ちかく死闘を続けていた両陣営は、一転して協力し日本軍と戦うことを約束したのである。ここに第2次国共合作が成立した。

この西安事件は、窮状にあった中共に息を吹き返させ、ソ連は抗日路線を堅持し、なにより国共合作によって蒋介石の反共路線を容共路線へと変換させ抗日気運を高めたのである。しかしこの重大な変化に対し、我が情報機関は他国同様ほとんど関心を示さず、何等の積極方針も明らかにしなかった。

===== 当時の対支政策 =====

参謀本部戦争指導課は、昭和11年9月 対支政策の指導理念として啓蒙指導にあたることにした。これは国防国策大綱に基づき、将来において日本が東亜の盟主となるためには、弱小諸民族を抱護・援助し、仁愛侠義の政策を実行しなければならない、というものであった。しかし現実には、支那に対し独善的威圧政策が続けられていた。日本側がこれら従来の対支政策に反省を加えつつあったとき、支那側は態度を硬化し両者の間にはズレが認められるようになり、昭和12年になると支那側の高圧ぶりは目をみはらせるものがあった。 抗日運動の激化は、満州事変以来の支那蔑視・対支優越といった観念を背景に、日本の融和政策にも動揺を来すようになった。

===== 蘆溝橋事件 =====

明治34年の北清事変(義和団の乱)の講和議定書(辛丑条約)を根拠として当時の北支は、日本をはじめ英米仏伊各国が軍隊を駐屯させており、自由に訓練・演習を行う権利を有していた。各国の兵力については取り決めがあったが、治安情勢に伴って増派と撤兵が繰り返されるのが常であり、それは各国の情勢判断に任されるのが実状であった。

昭和12年7月7日 1930 1個中隊(支那駐屯歩兵旅団第1聯隊第3大隊第8中隊)が蘆溝橋付近で、「薄暮の接敵行動と払暁攻撃の為の攻撃陣地構築」の夜間演習を開始した。その日は月のない星空で、夜空に蘆溝橋城壁が望める静かな暗夜であった。 演習が終わりに近づいた2240 演習終了を告げる伝令に向って機関銃が誤って30〜40発の空砲を発射した。すると今度は後方から数発の実包射撃を受けた。中隊長清水節郎大尉は演習中止を命令、集合ラッパを吹かせたが、そのとき再び十数発の実包が撃ち込まれて来た。直後に志水菊次郎二等兵1名が行方不明になった事態(のちに確認された)を受け、清水大尉は大隊長一木清直少佐に報告、大隊長は北京城内の聯隊長牟田口廉也大佐から電話で指示を仰ぎ部隊を非常呼集、戦闘準備を整えるとともに、支那側に対し調査・謝罪を要求する交渉を行おうとした。
7月8日 0325再度にわたる支那側からの射撃を受け、牟田口聯隊長は断固戦闘開始を命令、0530 応戦を開始した。(蘆溝橋事件は7月7日に起きた、とする史料は誤りである。日支両軍の交戦は7月8日に始まったのである。)

日本軍はたちまち堤防一帯を占拠、蘆溝橋城内の支那軍と対峙した。日本側はこの支那軍に撤退を要求、きかなければ攻撃すると通告した。このころ北京では特務機関長・松井太久郎大佐、第29軍軍事顧問・桜井徳太郎少佐、第一聯隊付・森田徹中佐らによって衝突回避のために支那側首脳と交渉中で、7月9日0400から支那側が蘆溝橋から撤退する協定が成立した。撤退時間を支那側が守らなかったために日本軍の砲撃が行われるといった事態も発生したが、一応事件は解決した。
7月11日1800には松井大佐と現地師(団)長との間に停戦協定が調印された。支那側は最初の発砲は支那軍ではない、と主張したが、日本軍側に遺憾の意を表し、責任者を処分すること等を条件に我が軍は蘆溝橋から撤兵した。

  日本軍側  戦死11名  負傷36名
  支那軍側  死傷者100名以上

===== 蘆溝橋事件の真相 =====

最初の発砲はどちらから行われたか?とは永年の研究対象とされていたが、今日では「最初の射撃は宗哲元指揮下の国府第29軍に潜入していた中共側である」とする説が有力である。また北京に潜入し劉少奇にそそのかされた北平大学、精華大学の学生を中心とした学生ゲリラがそれを支援していた、とも言われている。
中共は7月8日早朝、述安の本部から全国へ「蘆溝橋で日本は攻撃を開始した。全国民衆の愛国運動を結集して侵略日本に立ち向かうべし」とする電報を発信している。この打電時刻は日支両軍司令部でさえ事態の真相をつかんでいない時で、この時点でこのような電報が打電されたことは、中共が影でこの事件を画策していたことを十分推察される。
またモスクワのコミンテルン本部も、 @あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならない。 Aそのためにはあらゆる手段を利用し B民衆工作によって彼らに行動を起こさせ、国民政府を戦争開始にたち到らしめる。といった指令を発している。
中共当局はこれらの指令に基づき幾度も停戦協定を破った。その後日本側から働きかけた事変解決の和平交渉をすべて流産せしめたのである。
===== その後の緊張激化 =====

7月11日の停戦協定成立後の13日夜には再び射撃を交えることとなった。(日支両陣営の中間地点で拳銃や爆竹を鳴らすものがあった。中共の策謀の可能性が極めて高い)。 また支那側は兵力の撤退を行わず、却って兵力を増大し、12日の天津発同盟によれば、支那中央軍の北上は活発を極め、武器弾薬の輸送も戦時状態を呈しつつあった。

7月17日 蒋介石は、蘆溝橋事件は日本側の計画的挑戦行為であり「最後の関頭」の境界である、とする重大な決意を声明。これを受けた我が国は、対日全面戦争を決意したものと判断した。7月25日、天津と北京の中間で、軍用電線を修理中の我が部隊が、張自忠の部隊から攻撃を受け多数の死傷者を出す郎坊事件が発生。蘆溝橋付近における支那軍の挑発的態度に変化なく、北平や南苑付近でも各種小事件が発生、26日には広安門城壁上からトラックに分乗した我が部隊を射撃する広安門事件が起こった。さらには29日安全であるはずの通州で、支那の保安隊が叛乱をおこし、特務機関長細木繁中佐以下日本人居留民260人を惨殺する通州事件が発生した。 ついに支那派遣軍は軍事行動の意見具申を中央に打電、不拡大主義者・作戦部長石原莞爾も事ここに到っては決断せざるを得ず、居留民・権益保護のための動員派兵が決定されたのである。

===== 近衛声明にみる支那事変の本質 =====

昭和12年、事変勃発時は局地解決を意図していたこともあり「北支事変」と称した。その後中支に拡大するに従って 政府は「支那事変」と改称するに至った。

昭和12年7月11日 政府は今次事件を「北支事変」と命名
昭和12年9月 2日 閣議で北支事変を「支那事変」と改称決定

「日華事変」というのは後の俗称であり、「日中戦争」などは歴史上存在しない架空の出来事である。日本は支那に対して正式に宣戦を布告することはなく、蒋介石政権も対日宣戦は行わなかった。(蒋介石が日独伊に宣戦を布告したのは大東亜戦争勃発後の昭和16年12月9日である。) 日支両国ともに全面戦争になることを避け、常に解決の糸口を探していたからである。

昭和13年12月 閣議決定された「日支新関係調整方針」に基づき、12月22日、いわゆる近衛声明と呼ばれる東亜新秩序建設の声明が発表された。 これは支那事変の目的を明らかにした基本方針で、支那事変の本質を明確に現したものである。

 @ 支那は満州国を承認し、日本は支那の独立主権を尊重する
 A 領土の割譲を求めず、賠償を要求しない(在華居留民の権利利益の損害は除く)
 B 治外法権を日本は放棄し、租界地返却を考慮 
 C 防共地域以外のすべての地域からの2年以内の撤兵
 D 日支防共協定の締結、日本軍の防共駐屯
 E 第3国の権益を損なわず=日本のみが経済開発を独占しない

我が国はあくまで事変として処理し、領土的野心も賠償も求めていなかった。米英ソの力を背景に、抗日・遠交近攻政策をとる蒋介石に反省を促すことにあった。事変当初は日支の間には外交関係は断絶していなかった。また両国間の条約は依然効力を保持していた。従って降伏してきた支那兵を釈放することもあったし日本在住の支那人は敵国人として収容されることもなかった。

 @ 米国の中立法発動などによって戦時物資の輸入が困難になることを恐れた
 A 大義名分がなかったので、戦争ではなく事変だと「国民をごまかした」

などが宣戦布告は行われなかった理由である。(特にAは左翼史観によって強調されることが多い) それも一面では真実であるし(内閣に第4委員会を設置し、宣戦布告について利害研究が行われた)、大本営が設置されるほどの「事実上の全面戦争」であったのは紛れもない事実ではあるが、表面上の事象のみみて「日中戦争」などと称するは歴史の歪曲であると断じる。 なぜ「戦争」ではなく「事変」なのか? 以下の点に留意して支那事変の本質を理解する必要がある。

 @ 蒋介石に抗日・悔日政策を改めさせ、現地日本人に対する非道に反省を求めるのが目的であった。
 A 英国による阿片戦争などと異なり、我が国に領土的野心などは全くなかった。
 A 事変後も依然として条約関係は効力を保持し、両国は事変解決の交渉を継続していた。
 B 戦争に持ちこまないことで、第3国の権益を制限しないように配慮した。
 C 宣戦布告のない場合、以下の制約が発生したが敢えて受忍した。

    1) 港の税関の接収ができず、郵政・金融など占領地行政に不便をきたす
    2) 親日派の支那人指導者が日本の決意に疑念を抱くため、新政権樹立に熱意が欠ける
    3) 作戦行動に制約を受け、不徹底となる
    4) 「九ヶ国条約」(大正11年)違反の抗議を各国から受けることになる

支那事変を「日中戦争」などと詐称する事こそ、「歴史のごまかし」である。


        支那事変2/上海会戦 南京攻略戦 トラウトマン工作 ほか


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