本項は、明治建軍以来大東亜戦争に至るまでの主要戦争・事変の概説である。

1492年コロンブスはアメリカ大陸を発見、1498年バスコ・ダ・ガマはインド西海岸に到達、大航海時代が始まった。これは白人による粉飾呼称で、実態はスペイン、ポルトガルを先頭とする西欧諸国による大侵略時代の始まりである。キリスト教の布教という名目で悪行の限りを尽くした二国にオランダ、イギリス、フランスが続き、世界各地への植民地獲得競争が始まった。
これらの西欧諸民族は17世紀頃から世界的な派遣を争って盛衰興亡を繰り返したが、18世紀末に英国が産業革命を成功、19世紀に入り西欧諸国がこれに続くと、英・露・仏・独・米などが強国の地位につき、再び世界の植民地獲得競争に乗り出した。その主目標は、近東と中央アジアを経て殆ど手付かずで残された東アジアに向けられた。

19世紀はイギリスの国力を基礎とする平和−Pax Britannica−の時代であった。
列強の中でも最も先進資本主義国家であった英国の東アジア進出は、東インド会社設立(1600)に遡る。まず1784年のインドの完全な植民地化を果たし、東インド会社のラッフルズにより1819年シンガポールを獲得して東アジアの根拠地としていた。明治維新に先立つこと約30年の1840年、清国に対し「阿片戦争」を仕掛け、南京条約(1842年)によって香港を割譲させ、上海、厦門、広東など5港を開港させ極東における勢力を急速に拡大した。1856年「アロー号事件」を口実に英・仏は連合して再び清国に戦端を開き、広東を攻撃してこれを占領、1860年北京を陥れ、「北京条約」を結んで商権を獲得した。
この間、オランダからマラッカを譲らせ、マレー半島を保護領とし、1867年には海峡植民地が成立した。また三次にわたる「英緬戦争(ビルマ戦争)」で温厚な仏教徒であるビルマ王朝を滅ぼし、1886年にはビルマを併合、インドの一州として合併させていた。
ロンドンの大英博物館が世界最大の規模を誇っているのは、この頃世界中から奪った文物で満たされているからである。

インドにおける植民地獲得競争に敗れたフランスは、ベトナムの内乱に乗じて華南侵略を開始した。仏人宣教師迫害を口実にナポレオン3世は兵を送りサイゴンを占領、サイゴン条約(1862年)でコーチシナを割譲し、翌1863年にはカンボジアを保護領とした。明治維新に先立つ5年前のことである。さらにメコンデルタ、ハノイを其々占領、ついにカンボジア、ラオスを含む、いわゆる仏領インドシナ全域を植民地として支配するに至ったのである。

ロシアは英国の東進よりもはるかに早く、1686年にはコサックによって黒龍江地方を占領したが、清国の最盛期であり満州を侵すことはできなかった。1689年清国との間に「ネルチンスク条約」を結んで国境を画定し、北方を回避東進して1707年にはカムチャッカに達しその占領を発表した。さらに西に千島列島、東にアラスカ半島と征服の歩を進め、1740年前後にはアラスカ半島とアリューシャン列島を含む北太平洋に不抜の地歩を築いた。実に明治維新より130年も以前のことである。
なおも「太平天国の乱」に乗じて黒龍江以北の地を奪い(1858年 愛琿条約)、英・清間の北京条約締結に介在した報酬としてウスリー以東の沿海州を割譲させ、日本海に臨むウラジオストック港を太平洋方面の根拠地とした。ウラジオストクとは「東方の支配」を意味し、不凍港獲得が国是であるロシア南下侵略政策の象徴である。さらに幕末維新のころには盛んに樺太・千島・北海道をうかがい、1861年には軍艦ポサドニックによる対馬占領事件を起こしていた。

1776年 独立を完成させたアメリカは、1810年ナポレオン戦争で疲弊したスペインから西フロリダを、1818年さらに東フロリダをも併合、1836年にはメキシコがテキサスに対するアメリカ移民を禁止したことに端を発して謀略を用ってこれを独立させ、1845年にはテキサスを併合した。1848年さらにメキシコのカリフォルニアとニューメキシコを合わせ、オレゴンを英国と争い、インディアンから土地を奪いながら着々米大陸に急激な発展を遂げた。1861年からの南北戦争によて国礎を固め、1867年にはロシアからアラスカを購入、太平洋に面する一大強国となった。
アジアへの侵出が一番遅れた国であったが、「米西戦争」に勝利(1898年)すると、スペインからフィリピン、ハワイ、グアムを獲得、やがて大陸に目をつけるも時既に遅く、入り込む余地は残されていなかった。

大陸への余地のなかったのは、統一国家建設の偉業を成し遂げたばかりのプロイセン・ドイツも同様で、アフリカでの植民地獲得に留まってはいたが権益拡大を虎視眈々と狙っていた。またオランダは、小国にもかかわらず1605年から3世紀の永きにわたってインドネシアを領有しつづけていた。

以上のように19世紀初頭、インドからビルマ、ジャワ、フィリピン、オホーツクに至る地域は総て西欧列強の領土か植民地であった。

その中で有色人種で独立を保っていたのは、タイ、エチオピア、清、日本の4国であった。
タイ・シャム王国は、バンコク朝成立後は英仏両国の植民地獲得競争の緩衝地帯として危うく独立を保っていたのに過ぎず、エチオピアはアビシニア高原の風土病の地として侵略の対象から外れていた。李氏朝鮮は清国の事実上の属国であり、その清国も「阿片戦争」以降は衰退著しい半植民地であり、真の独立国家は日本のみであった。

しかして日本は、このような世界の大転換期に当たって鎖国政策の下で、200年あまり桃源の夢を貪り、世界に向かい目を閉じ耳を覆っていた。1780年頃からまずロシア、ついで1820年頃から英国などが来航してしきりに通商を求めたが徳川幕府は異国船打払令を発しこれを拒絶した。だが1853年 米軍人ペリーが軍艦の威圧の下に浦賀に来航、止む無く開港に至るも、英公使館焼き討ち事件、生麦事件、下関事件、薩英戦争などが相次いで起こり、幕府の崩壊、明治の維新と相まって内憂外患が一気に起こり、我が国は建国以来の重大な危機に直面した。

トルコ帝国から清帝国までの東方諸国が西欧列強の前に屈した今、侵略の魔手はいよいよ最後の拠点、日本に迫ったのである。

このように我が国が明治維新を迎えたのは、世界列強の植民地獲得競争が最盛期を迎えた時代である。新生明治政府が、いかにして国防をまっとうし独立を確保し、さらには民族の成長発展をはかるかは、きわめて困難な状況であった。欧米列強の包囲の下、弱肉強食の横行する現実の世界では明治新政府は富国強兵の道を歩まざるを得ず、隣国の清国・朝鮮と協同して列強に対抗する近隣外交を主張したが、各国の政情はそれを許さなかった。やがて列強の脅威が増大するに従い、明治陸海軍は隣接する清・ロシアに対する防衛戦力、均衡武力として、近代化・組織化され増強を重ねた。そして新興国日本が、産業発展の途を支那大陸に求めるや、前面に立ちはだかる清およびロシアと衝突するに至り、ここに日清戦争、日露戦争、ついでシベリア出兵、満州事変などの戦争を招来することとなった。

明治以来アジア唯一の先進国として、東洋の平和に責任を持ち、アジア諸民族の輿望を担っていた日本にとって、東亜の安定はそのまま自国の自存自衛に通じることを意味した。そして昭和16年12月 大東亜戦争が勃発する。この戦争は、西欧を凌駕する国家の確立と、東洋における指導的地位の確立という歴史的な二重構造の表出であり、ブロック経済の下、国際力学が生んだ避けて通れぬ宿命的戦争であった。そして日本はアジアにおける白人の帝国主義支配を打破するともに、その根底にあった白人優越の思想にも挑戦したのである。自存自衛と東亜解放の旗の下に全国民は打って一丸となって勇戦敢闘、故国の勝利を信じて壮絶なる玉砕戦を展開した。

時運利あらず、原子爆弾という非人道兵器の使用と、ソ連による中立条約の背信的侵犯によって我が国は遂に矛を収めたが、何百年もの永きにわたり、欧米列強の植民地として圧政下にあったアジア諸国は、大東亜戦争終結後自らの力によって独立を勝ち取り、発展の途を進むことになった。
全世界を支配してきた白人の「植民地帝国の19世紀的構造」は、大東亜戦争によって崩壊し、有色人種が白人と対等に渡り合える新しい世界の誕生はアジアからアフリカにも及んだ。

 
我が国は大東亜戦争に敗れはしたが、アジアの解放という戦争目的は達成されたのである。   平成15年2月11日 逐次公開

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