日露戦争 概説1   明治37年2月9日〜明治38年9月5日
 The Russo-Japanese War,1904-05


日露戦争は世界史を転換させた一大事件である。日本は、朝鮮半島が東侵主義的なロシアの手に陥ることを防止するため、国家安全上、真に止むを得ず国の存亡を賭して開戦に踏み切った。ナポレオンでさえ敗退させた世界屈指の大国たる帝制ロシアに対し、極東の新興小国日本が勝利しようとは我が同盟国であったイギリスですら思わず、世界中が日本の敗北を予想していた。しかしその予想は見事に覆る。政治と軍事を統合した明治日本の優れた政戦略は、最終的には日本に勝利をもたらした。近代史において初めて有色人種が白色人種に勝利したのである。
この日露戦争の勝利はアジア・中東・北欧などの諸民族に勇気と希望を与え、岡倉天心の言う‘アジアのめざめ’が生まれた。即ち、日本を範として白色人種の支配から脱しようとする気運が世界的に始まった。
日清・日露の両戦役に勝利を収めた日本は、国際社会においてその地位は確立されたかに見えた。しかし欧米列強は日本の指導的地位を認めないばかりか、アジア唯一の先進国として警戒の目を向けるようになった。ここに我が国の国防は新たな展開を要することになるのである。

日露戦争1 :日露戦争の背景 北清事変後の極東情勢 日英同盟締結と開戦経緯
日露戦争2 :両軍兵力と作戦構想 仁川沖海戦 旅順港閉塞作戦 鴨緑江作戦
日露戦争3 :黄海海戦 蔚山沖海戦 遼陽会戦 沙河会戦 黒溝台会戦
日露戦争4 :旅順攻略戦
日露戦争5 :奉天会戦
日露戦争6 :日本海海戦
日露戦争7 :支作戦 ポーツマス講和条約 戦果と損害 日露戦争の意義

===== 日清戦争後の極東情勢 =====

日清戦争によって、国際社会での「眠れる獅子」清国の威信は低下し、列強と清国との力関係は大きく変化した。加えて重要なことは、清国最大の軍事集団であった北洋軍閥(軍団)が潰滅し、満州から華北にかけて軍事的空白が生じたことである。満州から華北にかけての地域は、北洋軍閥が存在するために未だ列強が進出できなかった最後の未開地であった。この軍事的空白地帯の発生は、列強による新たな勢力圏獲得競争を招来することを意味する。その地域に占領軍を置いていたのは日清戦争の戦勝国日本であったが、列強は新興国日本の駐留などなんら問題にしておらず、いつでもこれを排除できると考えていた。
このような日本軽視と軍事的空白地帯への強い関心を抱いていたのはロシア、フランス、ドイツなどで、三国干渉はその現れである。中でもシベリア鉄道を建設中で不凍港獲得の必要があったロシアが極めて積極的であった。

===== ロシアの東侵政策 =====

ロシア東侵図1

ロシアは日清戦争が終わると露清密約を結んで満州進出を図り、明治31年(1898)東清鉄道の敷設権を獲得、さらに三国干渉で日本から取上げた旅順、大連の租借協定を締結、不凍港獲得の念願を達成した。ロシアはその後、旅順、大連の経営に力を注ぎ、韓国進出については一時日本と協調的態度に出ていたが、明治33年(1900)になると韓国に迫って馬山近傍にロシア極東艦隊の碇泊地を租借した。
これは旅順とウラジオストク軍港の中継基地ではあり、見方によっては日韓の連絡線を遮断し、韓国を三方向から制圧する態勢とも読み取れた。また、巨済島とその対岸をロシア以外に租借させないという露韓密約を結んだ。さらに鴨緑江の資源開発の利権を獲得、その勢力は次第に朝鮮半島を南下してきた。このため、三国干渉後は臥薪嘗胆ひたすら国力の充実を図る日本と、極東侵略の企図を露骨に現してきたロシアとが、韓国を舞台として激しく対立するようになった。

北清事変ののちロシアは、東清鉄道を防衛するという名目で大軍を出兵し、虎視眈々と狙っていた満州全土をたちまち占領した。その後も満州への兵力は増加の一途を辿り、ロシアの満州占領は永久的なものであることが意図されていた。明治33年11月には、極東総督アレクセーエフは奉天将軍・増棋に圧力を加え、第一次露清密約を強引に承諾させた。 明治34年3月にはペテルブルクにおいて第二密約が調印されることになったが、我が政府は、この密約は東洋平和に危険なものであるとしてイギリスと図ってロシアに抗議した。当時ロシアはまだ南満鉄道の工事が完成していないため十分な軍隊を極東に送ることができず、清国に対する要求を一応撤回した。しかしその後もロシアは、満州占領の合法化/第三次密約を清国に迫り、列国の支援を受けて密約に抵抗する清国と長い間交渉を続けた。

ロシア東侵図2

このロシアの行動は、ロシアが既に韓国で軍事基地を獲得し、大連、旅順を租借、渤海湾、黄海の事実上の制海権を有し、朝鮮半島を通じてウラジオストクとを結ぶ長大な軍事基地を完成していただけに、重大な脅威であった。韓国に於ける日本の権益が危ういという問題ではなく、日本の存立そのものの危機であった。ロシア本土は、日本からはとうてい乗り越えられない遠い彼方の距離にあるのに対し、日本は、その本土を直接ロシアの前進軍事基地の前面にさらしていたのである。

===== 我が国を巡る当時の極東情勢 =====

明治日本の指導者にとって、日本列島の安全を保障するためには、朝鮮半島が強大な大陸国家の支配化に陥るのを防止することは不可欠の要件であった。古くは文永、弘安の昔、日本は元寇という国難に直面した。蒙古の圧政による命令下とは云え、弘安の役だけでも艦船900艘の建造と正規軍1万人、水手15000人の従軍により日本侵略の計画に荷担したのである。朝鮮が弱者であったが故の協働行為ではあったが、我が国は元寇の経験を通じて、朝鮮半島が大陸勢力の支配下に陥った時の日本に対する脅威について十分な教訓を得たのであり、この教訓は明治の指導者にも受け継がれていた。
その朝鮮と清国は、明治日本が最大の経済的利害関係を有する国家であったが、政治的に極めて不安定な両国が西欧列強の支配するところとなれば、日本の安全と経済的権益は危殆に瀕するものと考えられた。

===== 日英同盟か日露協商か =====

かくしてロシアは満州を軍事占領し、その矛先は韓国の上にも及び、日本との利害はついに衝突せねばやまない勢いになった。当時の日本の軍備は、まだ予定の完成をみていなかった。独力で強大なるロシアに対抗し、ロシアの勢力を極東から掃蕩することは到底不可能である。いきおいロシアと協定の道を求めてその侵略的政策を緩和させるか、または他の列強と提携しその力を借りてロシアに対抗するか、国策はそのいずれかであった。

前者は、満州はロシアに譲って韓国における地位は確保しようという「調整可能論」「満韓交換論」で、伊藤博文、井上馨、山縣有朋ら元老級であった。後者は、膨張主義政策を強行するロシアは、満州を占領したのち韓国も必ず占領するから調整は不可能であるとする「対立必至論」で、桂太郎、加藤高明、小村寿太郎、林董ら現役大臣公使級であった。

当時の日本政府の基本的外交方針は日露協調路線であった。ロシア駐日公使イズヴォルスキーらは大いに日露提携を唱え、伊藤博文は外遊にあたって日露協定を主張していた。 もっとも日露協調路線を主張する意見は日英同盟を望んでいないというわけでなく、日英同盟の成立は困難と判断していたのである。世界各国に属領・植民地を持ち、独力で国際社会のリーダーであろうとした「栄光ある孤立主義」を続ける大英帝国が、一転して極東の小国日本との同盟を結ぶことなど夢想であるとして、より現実的な日露協調を試みるのが自然であった。

===== 桂内閣の誕生と日英同盟締結 =====

この日露提携論はイギリス側に伝わり、少なからずイギリス政府を神経を刺激した。北清事変で我が陸軍の実力を目前にした英国の当事者の中に、極東でロシアに対抗できるのは日本の他にないという観念が高まってきた折でもあり、日英同盟の締結は両国上層部で真剣に考えられるようになっていく。加えてロシアと日本が協定を結ぶのではないか、という疑惑はかえって日英同盟の締結を早める結果となった。

明治34年6月成立の桂太郎内閣は、駐英公使林董をして、英国が日英攻守同盟まで考えていることがわかった。英国は、当時南ア戦争(ボーア戦争)のため極東に手を伸ばす余力がなく、ロシアがその虚に乗じて極東に進出してきたことを警戒していた時であったからである。その後数次にわたる意見交換と内容の修正を経て、明治35年1月30日ロンドンにおいて日英同盟は締結された。

日英両国が本同盟に託したものは立場の相違によって異なっていたが、日本はロシアに優越する権益の保証と大英帝国の輿望を得ることであり、イギリスはロシアの南下を極東で阻止することである。ただロシアの膨張政策を強く意識した点において両国は共通しておりこれが「対露同盟」といわれる所以である。

===== 対露外交交渉 =====

日英同盟はロシアの対清政策に影響を与えた。明治35年4月 ロシアは北清事変で満州占領のために派遣した膨大な兵力を3回に分けて撤退させ、満州の権利を清国に戻すことを露清条約として清国に約した。

ところが、明治35年10月8日の第一次撤兵は実行したが、続く明治36年4月8日の第二回撤兵は、期日が来てもロシアは撤兵を実施しないどころか、逆に増兵の気配さえ示した。そして一方では清国に撤兵の条件として、7ヶ条にのぼる満州の利益独占の要求をつきつけた。日英両国は、清国にロシアの不当な要求を拒絶するよう警告、米国もロシアに抗議し満州解放の約束をさせた。清国はロシアの要求を拒絶したが、それはロシアに満州に居座る口実を与えた。第一次撤兵も実は遼陽に移動しただけで、満州の経営をますます進め、占領の実績が既成事実となっていた。

このロシアの態度に対して、4月21日 京都の山縣有朋元帥の別邸無鄰庵で、桂首相、小村外相、伊藤博文、山縣有朋は協議した。そこで「満州問題についてはロシアの優先権は認めるが、朝鮮問題は譲歩しない」という基本方針を確認した。いわゆる「満韓交換論」の外交政策に立脚したものである。この間、ロシアの満州に対する野心は露骨な様相を呈していた、鳳凰城、安東県一帯を支配下におさめ、旅順要塞の補強を進めた。7月には東清鉄道が完成し、軍隊の大量移動の基礎はできていた。8月には極東総監府が設置され、日露間の関係は急速に悪化していった。

6月12日 ロシア陸軍大臣クロパトキン大将が極東視察の途中来日した。去る露土戦争(1877〜1878)の功績から欧州きっての大戦略家、皇帝側近の重臣と目されていたおり、我が国は国賓に準じて待遇した。日本の元老その他首脳と会談して帰国したクロパトキンはのちに、「日本兵3人にロシア兵は1人で間に合う。日本との戦争は、単に軍事的散歩にすぎない。」と語り、日本の戦力を問題にしていなかった。当時のロシアにとって、日本はトルコよりも遥かに弱小な後進国としか認知されていなかったのである。

===== 戦争を辞せざる決意の下に対露交渉 =====

クロパトキン大将が離日してから1週間後の6月23日 対露問題について御前会議が開催された。伊藤、山縣、大山、松方、井上の5元老と、桂総理、小林外相、寺内陸相、山本海相とが列席した。席上桂首相は、先の無鄰庵会議で決定した方針に基づき小村外相が起草した対露方針を説明、検討の結果以下の要旨が決定された。

@ ロシアが約にそむき満州から撤兵しなければ、この機会を利用し朝鮮問題を解決すること
A この問題を決定する場合、まず韓国はいかなる事情があろうとも、その一部でもロシアに譲与しないこと
B 満州については、ロシアが既に優位な立場にあるので多少の譲歩はあり得ること
C 談判は東京で開催すること

万難を排しても朝鮮は譲歩しないということは、ロシアとの衝突は免れないものであった。従って6月23日の御前会議は、戦争を辞せざる決意を固めた日であった。

結果から見れば、日露開戦7ヶ月半前にあたり、日清戦争で戦争を辞せざる決意を固めたのが開戦2ヶ月前、のちの大東亜戦争が3ヶ月前である。これは、ロシアがあまりに強引で妥協の余地がなかったこと、4月21日の無鄰庵会議で伊藤、山縣の両巨頭が決意を固めたこと、大山、桂、寺内ら陸軍出身者の腹が決まっていたので、内閣として統帥部との摩擦もなく、山本海相を始めとする海軍の反対意見も体勢を動かすものではなかったことと、重大な御前会議に元老の地位が高かったこと、等々がのちの大東亜戦争に比べ注目されるところであろう。

===== 開戦経緯 =====

せっかく日清戦争によってあがなった韓国の独立が脅かされ、朝鮮半島の安定をもって日本存立の保証地とする国是が侵害される危険を感じた日本政府は、明治36年(1903)7月28日 駐露公使栗野慎一郎をしてロシアに対して満州撤兵の履行、満州・朝鮮半島における相互権益の承認等について交渉を開始した。この時日本には「38度付近で勢力圏を分けよう」とする案まで出たという。日本はロシアとの紛争をギリギリまで避けようと努力したのである。
これに対しロシアは誠意を示さず、8月12日 積極派のアレキセーエフ海軍大将を旅順の極東総督(太守)に任じて、極東の軍事、外交、行政を委任した。ロシアの駐日公使ローゼンと小村外相とは10月6日 外相官邸において会談を開始し、以降8日、14日、26日とこれを続けた。しかし彼我の主張の懸隔は大きく妥協の余地はなかった。しかも10月8日はロシアの満州撤兵第三期の最終期限であったがその撤兵の兆候もなかった。

日露間の危機が刻一刻と近づく中で、明治37年は明けた。1月6日ローゼン公使は小村外相に対し、去る12月21日小村が提議した修正案への回答を手交した。明治36年10月3日、12月11日に続く第三次案である。この回答はロシアの最終提案となったが韓国領土に関する主張は、依然として12月11日案を踏襲していた。
小村外相は1月13日 御前会議に基づく日本の最終案をローゼン公使に通告、同様に栗野公使に対しても訓電した。ロシアでは日本の最終提案を受領すると、アレキセーエフが、日本の提案は語調も内容も従来より自惚れて大胆である、として交渉打ち切りを主張した。そのためか日本からの督促にも拘わらずロシアは1月末になっても回答の期限すら明示せず、加えて極東での軍事行動はますます顕著となり、2月3日にはロシア旅順艦隊が出動して行方不明であるという急報すら入った。

2月 4日 午前 開戦を閣議決定。午後 御前会議にて閣議決定を天皇御裁可。
明治天皇は会議終了後「今回の戦は朕が志にあらず、然れども事既に茲に至る、
之を如何ともすべからざるなり」と開戦を深く憂慮された。
2月 5日 粟野公使に対し、「国交断絶」の通告をロ外相に提出を電令
2月 6日 1600 粟野公使、独立行動の採用と国交断絶の公文をラムスドルフ外相に手交
2月 8日 小村外相 ローゼン公使に国交断絶を通知
2月 9日 ロシア 対日宣戦布告(官報掲載10日)
2月10日 日本 対露宣戦布告
粟野公使以下公使館員 ロシアを引揚げ
2月11日 ローゼン公使以下在日公使館を閉鎖

照憲皇太后は女官を遣わされ、ローゼン夫人に令旨を賜り
「国交回復の日、再び夫人の帰来を待つ」として、御餞別に銀製の花瓶一対を下賜された。
ローゼン夫人は涙し、暫くは拝答の辞を述べることはできなかったという。

2月12日 ローゼン公使以下 横浜出帆のフランス遊船ヤーラ号にて帰国

「多年の親友であるベルギー公使が伊藤博文の使命を帯びて来訪し、
伊藤が公職上親しく別辞を述べることはできないのは遺憾であるが、他日国交が回復し
再び再会の日が来る事を切望していると伝えた。(中略)
護衛兵一隊が我が公使館に到着し護衛を受けて新橋駅に向かったが、
沿道には騎兵部隊整列し、(日本人による)侮辱又は迫害に対し我らを保護した(中略)
プラットホームには外交団全部の他、宮中の高官及び夫人が我らを待ち受け、慇懃に別辞を叙す。
(中略)これ実に任侠なる日本が、敵国代表者に対して致せる送別の礼なり」
                                 ローゼン公使の回想録/機密日露戦史

以上のようにして明治36年8月以降、約6ヶ月にわたった日露交渉は遂に不調の裡に幕を閉じたのである。

 
未だ重工業発達の域に達していない日本にとってロシアは、人口で約3倍、石炭生産量で1.6倍、銑鉄・鋼材の生産量では数十倍にも達する大国である。ヨーロッパから極東に至る世界最大の国土を有し、陸軍は当時世界最強との誉れが高く、海軍も大拡充に着手しており、国力、軍事力の面からはとうてい敵しがたい国である。
ロシアに完勝できることを予想するものは、日本の責任ある当局者のなかには、だれ一人としていなかった。


        日露戦争2/両軍兵力と作戦構想 仁川沖海戦 旅順港閉塞作戦 鴨緑江作戦ほか


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