日露戦争 概説5   明治37年2月9日〜明治38年9月5日
 The Russo-Japanese War,1904-05


===== 会戦前の国状 =====

遼陽・沙河の両会戦と旅順攻略の5万余とあわせると、10万を超える将兵がこの1年で斃れていた。砲弾の欠乏に鍋や釜を潰して弾丸を作らねばならないほど貧弱な生産力しかない日本は、すでに募集した3億の外債も消費していた。参謀次長 長岡外史少将は、弾薬が補充されるまで2、3ヶ月の休戦もやむを得ない、と進言したほどだった。
これに対してロシアは、同程度の損害を蒙ったとはいえ新たに欧州から10数万の兵力をシベリア鉄道で送り込み、海軍は日本の主要艦艇に匹敵する規模の太平洋第二艦隊(いわゆるバルチック艦隊)を極東に派遣しつつあった。バルチック艦隊並びに奉天に集結する陸兵40万のある限り講和には応じられないと声明したロシアに対し、日本は否応なく陸海で決戦を挑まなければならなかった。

===== 会戦前の戦況 =====

旅順を陥落させた第3軍は、明治38年1月下旬より北上を開始、鴨緑江軍も兵站の困難を克服しつつ満州軍の東に進出しつつあった。大本営では、来る満州での一大決戦に備えて3個師団の増設と弾薬、火砲の増産と外国からの購入など、兵備の拡張に努めるとともに、駐米公使 高平小五郎をして米国大統領に早期講和の斡旋にむけて検討し始めていた。

奉天会戦指導要図

満州軍では例年よりも早い解氷期に先立って奉天付近のロシア軍に決戦を求めることに決した。韓国駐剳軍隷下の鴨緑江軍(司令官 川村景明大将)に敵の東翼を包囲してこの方面に牽制するよう要請し、第1(司令官 黒木為髑蜿ォ)、第4(司令官 野津道貫大将)、第2軍(司令官 奥 保鞏大将)を並列して北進、第3軍(司令官 乃木希典大将)は敵の西翼を包囲させることとした。
満州軍総司令官 大山巌大将は明治38年2月20日、この命令を下達するとともに、「本会戦は日露戦の関ヶ原である。この会戦の結果を全戦役の決勝とするよう努めよ」として、正面からの力攻を避け、側背攻撃と少ない損害で大打撃を与えるよう訓示した。

一方ロシア側では、第3軍の行動は注視しており、黒溝台の敗戦後も早期の攻勢が検討されたが、クロパトキンは迷った後2月21日日本軍の西翼を包囲する攻勢の開始を命じた。しかしこの攻勢は日本軍によって出端をくじかれ、攻勢の中核となるロシア第2軍は24日には攻勢を断念してしまった。

===== 奉天会戦第1期 明治39年2月26日〜2月28日 =====

明治38年2月26日 鴨緑江軍は牽制行動のため坂城峪に、第1軍は高嶺子南方高地にそれぞれ進出、翌27日両軍はそれぞれ前面のロシア軍を攻撃したが、ロシア軍も徹底して抗戦し、いずれの正面もほとんど進展を見なかった。
第3軍は28日までに西翼に展開、第2軍と第4軍は、砲戦を行って企図の秘匿につとめた。ロシア第2軍は、日本軍の左翼に対して攻勢に出ようとしていたが、我が第3軍の動向を読み違え、攻勢を中止してしまう。28日になり、黒溝台方面からロシア軍を撃破しつつ清河城を占領、奉天西方に出現した日本軍に対し、果敢な行動から乃木第三軍であろうと判断、これを撃退するため予備隊を奉天付近に集結させた。

奉天会戦展開図

しかしそれは乃木第3軍でなく、川村景明大将率いる鴨緑江軍(第11師団、後備第1師団、後備第16旅団 他)であった。ロシア軍は日本軍主力が奉天の東方から進出してくるものと想定していたのである。

===== 奉天会戦第2期 明治39年3月1日〜3月7日 =====

3月1日 早朝から全戦線に渡って日本軍の総攻撃が開始された。
しかし、塹壕を掘り、障害物を設けたロシア軍の陣地は堅固で、第2軍正面は攻撃が進まず、1日で4679名の損害(うち戦死1089)に及んだ。第4軍、第1軍ともに攻撃は進まず、快調だったのは第3軍のみであった。第3軍は1日に新民府、四方台を占領し、3日にはロシア軍の反撃を撃退し、4日には奉天まで10数Kmの地点まで進出した。
これに連携して第2軍の左翼も前進できたが3月6日まで第3軍を除く各軍は、押しつ押されつの状態で戦況に著しい進展はなかった。第3軍の前面の抵抗も強くなり、第3軍は更に北方に迂回してロシア軍の退路を断とうとした。

一方のロシア軍の3月5日の反撃は不発に終わった。シベリア第1軍団の集合が遅れ、また我が第2軍の第5、第8師団の攻撃で、右翼隊の一部を左翼正面に転用しなければならなかったからである。しかし第3軍が奉天の頸部に突入しようとした3月7日 戦機は動き始めた。後方に不安を感じていたクロパトキン大将は、ロシア第1、第3軍を渾河の線まで撤退させ、新たな兵力を抽出することにした。

===== 奉天会戦第3期 明治39年3月8日〜3月10日 =====

満州軍総司令部がロシア軍の後退を知ったのは、3月8日0120 第1軍司令部からの電報による。総司令官大山巌元帥は改めて全軍に対して追撃命令を達した。
第1軍は急進してロシア第1軍を奉天付近にあったロシア第2、第3軍から分断し、第2軍、第4軍は前面のロシア軍に対して猛攻を開始、第3軍は鉄嶺に至る鉄道、道路を遮断しようとした。ロシア軍は全軍の崩壊を避けるため、3月9日我が第3軍及び第5師団正面に対し猛烈な逆襲を実施、この正面の日本軍は一時苦境に立ち、後備第1旅団などの一部には壊滅する部隊もあった。
反撃部隊はムイロフ中将の指揮する歩兵29個大隊、火砲約100門で、昼間攻撃に続き夜襲によって日本軍を苦しめた。
3月9日1915、クロパトキンは鉄嶺に向かう退却命令を発令、10日夜に入り、会戦は日本軍の大勝をもって終わり、奉天は我が手中に落ちた。

===== 戦果と損害 =====

  日本軍 ロシア軍
参加総兵力 249800 309600
歩兵大隊 240 379.5
騎兵中隊 57.5 151.3
火砲 門 992 1219
機関銃 254 56
工兵中隊 43 43.5
戦死 16553 8705
戦傷 53475 51388
行方不明   7539
捕虜 404 21797
鹵獲   軍旗3
砲48

===== 奉天会戦後のロシア軍 =====

奉天から四平街に退却した直後の3月15日 敵将クロパトキン大将は満州軍総司令官を罷免された。しかし軍団長でも良いから満州軍に留まりたいという熱意が認められ、3月21日新たに総司令官となったリネウィッチ大将の後任として第1軍司令官に任じられた。潔く降格人事を甘受したのである。

たしかにクロパトキン大将の指揮した作戦は、前年5月1日の鴨緑江会戦以来ほとんどすべてに敗北し、旅順要塞も失っていた。ロシア中央がクロパトキンを総司令官として不適格と認めたことは首肯されるかもしれない。しかしながら、ナポレオン戦争でもさらには後の独ソ戦でも、敗北と後退の連続から広大なロシア国内で敵軍を疲弊させ最終的に勝利を掴む、というのがロシア軍の伝統的誘致戦略である。
奉天会戦までは敗北と後退の連続だったが、既に日本軍は攻勢限界点に達していた。さらに勝った作戦であっても日本軍の損害の方が多い局面も存在する。一つ一つの防御戦闘、全体としての遅滞行動として見ればロシア軍の作戦は成功したといえよう。ただし防御だけでは最終的な勝利を掴むことは不可能である。まだまだ余力のあるロシア軍にとって、まさにこれからが正念場であった。

ところが予想を遥かに越えて頑強な日本軍、社会不安を増大していた国内事情などから、悠々と伝統的戦略を展開するのを待っておれなくなっていた。クロパトキン並びにロシア中央の大いなる誤算であった。この後日本軍は鉄嶺、奉天間に、またロシア軍は主力を公主嶺付近に展開、それぞれ爾後の作戦を準備しつつ、休戦を迎えた。
陸戦はこの会戦をもって事実上終了したのである。

===== 会戦の結果 =====

本会戦は、兵力劣勢な日本軍が放胆な包囲を敢行して大勝を得たものであるが、最後の段階で包囲網を完成させることができず、大漁を逃した形になった。人員、火砲、弾薬の不足がその致命的な原因である。しかし、会戦期間が24日間、両軍合計約60万にも及ぶ大軍の戦闘は、世界陸戦史上空前の大会戦であり、世界の兵学界に大きな影響を与えた。すなわち、日露戦争前の戦争では、日没の早い冬季二日間にわたった例外を除き日没までに勝敗は決していた。日露戦争で作戦の歴史が大きく変わったのである。

満州国軍総司令官大山巌元帥は、奉天会戦後の3月13日 山県有朋参謀総長に、戦略と政治(政略)とが一致しなければ作戦は無意味であると上申、これを受けた山県参謀総長は3月23日「第一は敵はなお本国に強大な兵力を有するのに反し、我はあらん限りの兵力を用い尽くしている。第二に既に多数の将校を失い、今後容易に補充することができない。」との理由から「守勢をとるも攻勢をとるも容易に平和を回復する望みがない」との意見書が伊藤首相以下の閣僚に示された。

しかしロシア側には依然として講和に応じる気配はなかった。バルチック艦隊によって制海権を奪えば、満州の日本軍への補給路が遮断でき、最終的にはロシアが勝利すると確信していたからである。

著しく優勢なロシア軍に対する奉天での陸上決戦での勝利は、列国の賞賛を集め講和を促す気運を進めたが、決定的打撃を与えるまでには至らず首脳部の憂慮は依然深かった。
そして本戦争の雌雄を決する最後の決戦が、今度は海上において展開されることになるのである。


        日露戦争6/日本海海戦


inserted by FC2 system