◆北東方面作戦◆

 ◆作戦の背景◆

 大本営は昭和17年5月5日 山本連合艦隊司令長官に対し、
 陸軍と協同してミッドウエイとアリューシャン西部要地の攻略を命令した。
 作戦構想の大要は以下の如し

   【 一 般 方 針 】
  作戦方向はミッドウェー島方面とアリューシャン群島とに二分するが、
  者を緊密に連携せしめる一体の作戦とし、要地攻略自体も作戦目的であるが、
  この攻略作戦を契機として出現が予想される敵艦隊を捕捉撃滅することも目的とする。


 ◆占 領◆

 昭和17年6月5日 ミッドウェー作戦は失敗に終わった。
 その時点で支作戦たるアリューシャン作戦も中止すべきである との意見もあった。(特に海軍部内)
 南方での作戦が激化し、北方作戦どころではなかったからである。
 しかし、結局アリューシャン作戦は続行された。(特に陸軍の主張)
 これは

 1) 北方からの本土空襲阻止
 2) 米ソ連絡路の分断
 3) 一部といえども「米国本土」を占領したという心理的効果
     ( そして ミッドウェー作戦失敗の隠蔽 )

 ということを根拠とするが、戦略的価値に疑問を抱いていた者は大本営首脳のなかにも少なくなかった。

 昭和17年6月7日 舞鶴第3陸戦隊(向井少佐指揮の海軍1250名)はキスカ島に上陸し占領した。
 翌6月8日 北海支隊(穂積少佐指揮の陸軍1142名)は、アッツ島に上陸した。
 島には米軍はおらず、アリュート人の原住民と2人の米宣教師がいただけで、無抵抗のうちに
 同島を占領した。2島ともに無血占領であった。


 ◆防備作戦◆

 大本営は当初、両島の占領は冬季までとしていたが、越冬可能と分かると長期占領に踏み切った。
 その後アッツ島を引き上げキスカだけの保持を一旦決めるが、昭和17年11月に北千島より
 歩兵2個中隊をアッツに増援、両島保持に変更する というようにしばしばその方針は揺らいだ。

 しかし、米軍の反撃の兆候を察した大本営は、
 昭和18年2月 「北太平洋方面作戦指導要綱」を議定、正式に両島の保持を北方軍司令官に伝達した。

 北方軍司令官樋口季一郎中将は、北海守備隊司令官に峯木十一郎少将を任命。
 キスカ島(鳴神島と命名)を北海守備第1地区隊
 アッツ島(熱田島と命名)を北海守備第2地区隊とした。


 ◆アッツ島沖海戦 (米軍呼称 コマンドルスキー島沖海戦)◆

 我が軍の戦略思想は陸軍の北進に対し、海軍は南方重視の思想であった。
 ゆえに北方には小兵力しか海軍は配置しておらず、第5艦隊が千島・アリューシャンを作戦水域としていた。

 昭和18年2月になると米軍のアリューシャン方面への空襲は激化の一途をたどった。
 第5艦隊司令長官 細萱戊四郎中将(36)は、防備体制強化の為に船団輸送任務の支援強化を開始した。
 3月9日の第1回輸送は成功し、第2回輸送部隊は昭和18年3月22日に幌筵を出撃した。

   日本軍   米軍
 重巡洋艦 那智,摩耶 ソルトレイクシティ
 軽巡洋艦 多摩 リッチモンド
 駆逐艦 若葉,初霜,雷,電,薄雲  ベーレー,コグラン,モナガン,デール 
 輸送船 三興丸,崎戸丸,浅香丸   

 チャールズ・H・マクモリス少将指揮の米第16・6部隊は、レーダーで日本艦隊を探知し追跡してきた。

 3月27日
   0230  米艦隊が我が艦隊を発見したのとほぼ同時刻、浅香丸の見張員が敵艦隊のマストを発見した。
   0342  日米両艦隊は、ほぼ同時に砲撃を開始した。距離2万米、右舷反航戦であった。
   0350  「那智」に「ソルトレイクシティ」の砲弾命中、一時射撃不能に陥る。戦死11名。
   0410  「ソルトレイクシティ」に「摩耶」の砲弾1発命中、 カタパルト炎上
   0420  「那智」「ソルトレイクシティ」それぞれ1発被弾
         米艦隊30ノットで西方へ待避行動。後続駆逐艦は煙幕を展開。
         距離2万メートルでの遠距離射撃が続いた上に北方特有の荒波のため、命中弾は少なかった。
   0502  「ソルトレイクシティ」2発被弾・累計4発 機関室浸水、一時航行不能となる。(のち航行可能)
         マクモリス少将、乗員の収容準備と駆逐隊に魚雷攻撃を命令。
         「ベーレー」、魚雷発射するも「那智」「摩耶」西方へ魚雷回避。そのため米艦隊との距離拡大。
   0717  「摩耶」「多摩」最後の斉射 細萱司令官追撃中止を命令、北千島に反転した。

 3時間半の戦闘で、我が第5艦隊の使用せる砲弾は約1600発、魚雷は43本(40本説あり)発射したが、
 命中したのは6発、魚雷は0であった。
 一方米艦隊は「那智」に砲弾7発を命中させた。

 劣勢ながら積極的な行動を示した米艦隊に対し、細萱長官の行動は消極的と言わざるを得ないものであった。
 米艦隊の20センチ砲8門に対して日本軍は20門。輸送船護衛という点を差し引いても批判の残る行動であった。
 また航行不能に陥った「ソルトレイクシティ」を取り逃がしたことも悔やまれる。

 追撃中止の理由として、残弾がなかった(実は残っていた)ことや
 「阿武隈」以下の第一水雷戦隊が「那智」「摩耶」の進路妨害したため としているが、
 当然連合艦隊司令部内で問題となり、細萱中将は解任され予備役へと更迭された。
 昭和18年3月31日付で河瀬四郎中将が司令長官に就任した。

 この海戦は、アリューシャン方面の制海権を握る好機であったが、結局それは米軍の手中に落ちた。
 即ち重巡1、駆逐1が損傷したが、船団補給を中止させた米艦隊の戦略的勝利であった。
 以降海上輸送による補給は中止され、駆逐艦や潜水艦による隠密輸送に頼るのみとなった。


 ◆米軍の攻略作戦◆

 対日戦略構想が確立していなかった米軍首脳の中で、アリューシャン方面経由の日本本土進撃を主張したのは
 アラスカ西部防衛軍司令官ジャン・デビット中将である。
 事実我が軍の北方警備は甚だ手薄で、的を得た戦略であったが、
 マーシャル参謀総長は時期尚早として却下した。デビット中将はなおも「自分の指揮下部隊のみでやってみる」
 と再度提案し、やっとマーシャル参謀長の同意を得た。
 この背景には、米国領を日本軍に占領された、というアメリカの国内感情があったことも要因であった。

 さらに、北太平洋艦隊司令官キンケイド少将から、アッツのみを攻略しキスカを孤立させる作戦が出された。
 米軍統合参謀会議も同意し、昭和18年5月7日をアッツ島攻略日と決定した。
 1年のうち最も霧の少ない時期を選んだのである。

         北東方面作戦2 アッツ島攻防戦   


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