◆香港攻略作戦◆

◆作戦の背景◆ 香港攻略図
米・英の極東三大拠点は、シンガポール、マニラ、香港であった。

シンガポールとマニラの進攻作戦が南方軍によって行われたのに併行し、
香港攻略戦は支那派遣軍によって行われた。
即ち、支那事変遂行上の大きな弊害となっていた、敵性租界地の処理と在華米英武力の掃討が
香港攻略作戦の主眼であった。

香港は、英国領の香港島と租借地・九竜半島からなり、
九竜半島南部の高地にはトーチカ陣地からなる堅固な防御線がひかれていた。
香港島の海側には堅固な砲台が構築され、九竜半島側に対しても複郭陣地が設けられていた。
しかし、大局的には日本の制海空権下に孤立した要塞であり、
その弱点は180万人も及ぶ過密人口とその給水の困難にあった。

昭和16年12月2日 香港攻略命令が発令された。
「大陸令第572号(鷹)発令さる」という電報であった。

酒井第23軍司令官は、12月9日1030 敵主陣地に対する攻撃準備に関する部署を命令した。
敵はその防御線において抵抗するものと判断し、砲兵を推進し1週間の攻撃準備期間を予定していた。
敵要塞に対しての攻撃原則に従い組織的攻撃の指導であった。

 
◆若林中尉の独断◆

第38師団・佐野兵団の歩兵228連隊は、右部署から第一線に進出していた。
その先遣隊は、若林東一中尉の指揮する第11中隊であった。若林中尉は連隊の先頭にあって
標高255高地を偵察中、敵兵力配備の欠陥と警戒の欠如に乗じて9日夕刻、独断にて敵陣地に突入、
これを奪取してしまった。歩兵228連隊主力はその機に乗じて一気に戦果を拡大し、第38師団は
所定の攻撃準備期間を待たず10日攻撃を開始、軍主力として12日敵防御線の突破に成功した。

若林東一中尉(52)はその後昭和18年1月にガダルカナル島で戦死するが、
ガ島の決死敢闘及び香港攻略戦の偉攻に鑑み、のちに2度の感状が授与された。
だが軍司令部内には当初、この独断行動に対し軍法会議に付すべきとの声もあった。
そして結果的には成功となった若林中尉の独断を、黙認し擁護した土井連隊長・佐野師団長ら
第38師団首脳と第23軍司令部内との間のしこりは、この後まで残った。

敵としても予想しなかった防御線の崩壊により、13日九竜半島全部の掃討は終了した。
敵英軍の大部は香港島に後退した。

◆香港島攻撃◆

第23軍は香港島に対し、12月13日と12月17日の2回に亘り軍参謀多田中佐を派遣、
降伏勧告を行った。非戦闘員への配慮と立籠ることへの戦略的な無意味さからであった。
ヤング総督は2回ともこれを拒絶したが、日本軍が香港島の一角に上陸すれば降伏するのでは
との印象を与えた。

12月14日、北島司令官率いる重砲隊は攻撃を開始。
12月18日、香港島北角付近と東北部の2カ所に渡海を開始、香港島東北部を占領した。
敵はニコルソン山の以西・以南の地区で抵抗を続けた。
戦闘は、18・20日の両日混戦状態となった。香港要塞の本格的抵抗に直面したのである。
予想に反し、香港島の複郭陣地は九竜半島の防衛線よりも一層堅固なものであった。
12月21日、貯水池のある高地を占領、香港全域に対する給水を断った。
さらに数昼夜にわたる激戦が続き、焦りの色が現れるようになった12月25日1750
英軍は白旗を揚げた。

かくして12月25日1930をもって停戦になり、香港攻略作戦は終了した。

◆戦果・損害◆

日英両軍の兵力の一覧及び損害は以下の通りである。

 第23軍    軍司令官 酒井 隆中将
    第38師団 師団長 佐野忠義中将
    第1砲兵隊 司令官 北島驥子雄中将
    第66連隊 (荒木大佐)
    飛行第45戦隊 (土生大佐)
 

 香港総督兼総指揮官 サー・マーク・ヤング
 香港駐屯軍司令官  CMマルトビイ少将
          香港歩兵旅団
          カナダ旅団
          ロイヤル砲兵隊
          香港義勇軍
  計 12000

  戦果    遺棄死体     1555
         捕虜        9495
         捕獲各種砲     110門
           戦車装甲車    10両
 

  損害    戦死       683(内、海軍6)
         戦傷      1413(内、海軍8)

  蘭印作戦


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