◆ 南太平洋陸軍作戦 ガダルカナル島作戦 ◆

 ◆ 作戦の背景 ◆

 大本営では米豪連絡線を遮断して豪州が反抗基地となることを阻止するため、
 かねてポートモレスビーを攻略するとともに フィジー、サモア、ニューカレドニアを攻略する作戦
 (FS作戦)を実施する構想であった。
 しかしミッドウエー海戦で主力空母4隻を失ったのでFS作戦は6月7日に2ヶ月延期となり、
 7月11日中止と決定されたが、かねて中部ソロモンに陸上機の基地推進を検討していた
 海軍の第4艦隊、第25航空戦隊はガダルカナル島の基地設定に着手した。
 7月1日設営隊の先遣隊を、7月6日本隊をガ島に上陸させ、8月5日には第1期工事を終わり、
 長さ800M、幅60Mの滑走路を概成した。
 当時のガ島在島の日本軍は、2個設営隊2571名うち陸戦部隊280名、
 他に遠藤幸雄大尉を長とする第84警備隊派遣隊約150名であった。

 海軍はガ島に飛行場を設営したことを陸軍に通報した。
 しかし大本営陸軍部部員の大部分はガ島の名前や位置さえも知らなかった。
 これは、東部ニューギニアの攻略は陸海軍で中央協定が作られたのに対し、
 ソロモン方面の作戦は特に研究が行われたことがなく陸軍の関心が薄かったためである。

 ミッドウエーの敗戦で太平洋における米艦隊の早期撃破に失敗した大本営・聯合艦隊では、
 米軍の本格的反抗は昭和18年中期以降と予想し、南太平洋方面ではモレスビーを攻略して
 東部ニューギニア−ソロモン−ギルバートの要線で連合軍の反抗を阻止する態勢を造る考えであった。

 
 ◆ 連合軍のガ島反攻開始 ◆

 一方米軍はミッドウエー海戦後、始めて主導的作戦をとり得る立場となった。
 種々の検討の結果、成功が比較的容易で大損害を避け得る上陸作戦を敢行することとなった。
 そしてその第一弾が日本軍が飛行場建設中であったガダルカナル島に決定されたのである。

 米国の対日戦略の基本は、我が本土侵攻による戦争終結にあった。
 ただし中部太平洋諸島の制圧なくしては対日進攻はありえず、航空基地確保は困難であった。
 米軍はこのような長期構想のもとに、我が補給線/攻勢終末点を越えた先端ガダルカナル島を突いてきたのである。
 これは大本営が予想した昭和18年後半以降という米軍反抗予想時期より1ヵ年早いものであった。

 昭和17年8月7日 米軍は主力をもってガダルカナル島に、一部をもってツラギ島に上陸した。
 『望楼(ウオッチタワー)作戦』の開始である。
 ツラギ島には米軍2個大隊が上陸、我が第84警備隊等約250名は0603を最後に通信を断って玉砕した。

 ガ島には巡洋艦3隻と駆逐艦4隻多数の飛行機による砲爆撃下、0710上陸を開始した。
 上記のように我が守備隊のうち、正規の戦闘部隊は500名以下であり、
 敵機来襲に備えて簡単な防空壕を構築していただけで、地上攻撃に対する築城は全然準備していなかった。
 不意をつかれた部隊は混乱状態に陥り、ジャングル内に離散、通信所は破壊され島外との連絡は途絶した。
 第13設営隊長 岡村少佐はルンガ川の線で米軍を阻止しようとしたが、第11設営隊長 門前大佐は困難と判断、
 8日朝までに後退した。陣地後退にあたって携行した糧食は1週間分に過ぎなかった。

 急報を受けた第25航空戦隊(司令官山田定義少将)は、基地航空部隊で猛反撃を加え、
 第8艦隊(司令長官三川軍一中将)はガ島に向い米巡洋艦艦隊を夜襲し大戦果を挙げた(第1次ソロモン海戦)。
 反撃を受けた米攻略部隊は一時ガ島水域から避退した。それを知った陸軍はガ島奪回を企図したのである。

 
 ◆ 一木支隊の戦闘 ◆

 8月13日 第17軍百武晴吉中将と第11航艦塚原二四三中将は、ガ島奪回作戦に関して現地協定を締結した。
 「キ号作戦」と呼称された作戦は、一木支隊と海軍陸戦隊だけでガ島飛行場を奪回しようとするものであった。
 一木支隊は、第7師団歩兵第28連隊長 一木清直大佐(28)を長とする2000名の部隊で、
 本来ミッドウエー島攻略作戦に参加が予定されていた部隊である。
 また横須賀第5特別陸戦隊は、司令安田義道大佐以下616名で6月以降グアム島に位置しており
 第8艦隊の指揮下にあった。

 一木支隊の乗船していた輸送船は、9.5ノットの低速船であった。そこでまず速度の速い駆逐艦6隻に
 約900名の人員を先遣隊・第1悌団として輸送し、支隊残りは輸送船による第2悌団として上陸させることになった。
 海軍陸戦隊は第2悌団と同行することとなった。
 先遣隊のみで攻撃するか、第2悌団の上陸を待って攻撃するかは支隊長の判断に任されたが、
 第17軍の意向としては先遣隊だけで攻撃奪取する趣旨であった。また支隊長一木大佐も同意見であった。
 なお軍司令部としては攻撃失敗の場合、やむを得ざればガ島一端を占領し航続部隊の来着を待つべしと命じた。

 一木大佐は、支那事変発端となった盧溝橋事件当時の大隊長(北支那駐屯第1聯隊第3大隊長)で
 歩兵学校の教官を永年勤めた実戦指揮に長けた武人であった。
 また旭川で編制された現役の将兵は、輸送にあたった海軍関係者が称賛するほど、動作溌剌、軍紀厳正であり
 我が陸軍の伝統的「白兵夜襲」をもってすれば、ガ島奪還など簡単なものと信じていたので、
 各人の携行する小銃弾は250発、糧食は7日分であった。
 先遣隊は、支隊本部、歩兵大隊、工兵中隊 重機8、軽機36、擲弾筒24、歩兵砲2の計916名と定めた。

 ガ島には、飛行場設営隊などの生存者と海軍陸戦隊の高橋中隊(113名)を合わせて
 『ガ島守備隊』が第11設営隊長 門前鼎大佐指揮のもと編成されていた。
 一木支隊による奪回計画を知ったガ島守備隊の士気は大いに挙がった。
 各種情報を総合してガ島米軍兵力は約2000名、一部はツラギ方面に退避途中で戦意は低いと考えられていた。
 とすれば米兵など鎧袖一触、我々は支那大陸で1をもってよく10にあたってきたではないか、と。
 だが実際は海兵第1師団を中心とした13000名(そのうちガ島には10900名)であり、
 10倍の敵に銃剣突撃の戦術をもって相対することとなるのである。

 ◆ 一木支隊の攻撃 ◆

 8月18日 2300 上陸した一木先遣隊は海岸線を西進、ジャングル内で大休止をとった。
 8月19日 0830 支隊長は渋谷大尉、館中尉以下の情報所要員と将校斥候34名を派遣した。
 ところがこれら部隊が3名を残し全滅したとの情報が入り、不幸な前途を暗示するかのようであった。
 8月20日 0230 支隊長は攻撃計画を示した。
 8月20日夜半から『行動即捜索即戦闘』の拙速主義をもって一挙に飛行場を奪取しようとするものであった。
 大隊長蔵本信夫少佐、次いで支隊長一木清直大佐が尖兵中隊長の位置に先行した。

 一木支隊戦闘要図

 8月21日 0118 ジャングル内に緑色の信号筒が打ち上げられた。
 尖兵第2中隊は擲弾筒の集中射撃の支援下に銃剣を振りかざして突入した。
 支隊長は一部で正面から牽制、主力をもって左翼方面から砂州を超えて攻撃するよう部署を行った。
 8月21日 0310 主力の攻撃が開始された。
 弾幕を集中する米軍に対し、我が夜襲はすさまじいものであったが、
 この正面を担当した海兵第2大隊の防戦も必死であった。
 一部には鉄条網を突破し敵陣に突入するものもあったが、大部分は砂州の前後に折り重なって倒れた。
 支隊長は機関銃中隊や大隊砲小隊(砲2門)を加入させたが、
 米軍の迫撃砲を主とした砲火が反撃集中されるのとは全く比較にならず
 支隊将兵は次ぎから次ぎへとイル川の穏やかな河口を埋めていくという悲惨な状況が展開された。

 8月21日 0900 支隊南側から米軍の反撃が開始、午後には戦車6両が加わり支隊の背後を蹂躙、
 さらにはグラマン戦闘機が頭上から攻撃を加えてきた。
 生き残った兵士たちは対戦車地雷で2両を破壊したが次々戦死、もはや支隊の抵抗もこれまでと
 一木大佐は1500頃軍旗を奉焼し自決した。

 
 ◆ 戦果と損害 ◆

日本軍 米 軍
総兵力   916 10900
戦 死 777  34
戦 傷  30  75

 戦傷者及び監視警戒のため上陸地点に残っていた、計128名は後続部隊の来着を待った。
 またこの攻撃で、米側資料によると15人が捕虜になったとされている。

 8月25日 精鋭とされる一木支隊の惨敗が第17軍司令部で確認された。
 それは21日部隊壊滅して以来実に4日目のことであった。
 軍司令部には重苦しい空気がみなぎった。
 米軍反攻の第一歩に対する日本軍最初の反撃はあっけなく終わった。
 軍司令部には重苦しい空気がみなぎった。
 日本軍としてあるはずはないと信じていたことが、現実に起こったのである。

         ガダルカナル島2 川口支隊の作戦   


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