ビルマ方面作戦/暫定作成


進攻作戦

ビルマは日本にとって南方資源地帯の西側防壁であるとともに、ラングーン−ラシオ−昆明と続く援蒋ルートの拠点でもあった。
一方英国にとってビルマの失陥は、印度・中近東への脅威となるものであり、果てはドイツ・イタリアとの連携をも可能にさせる危険を招くものであった。

昭和17年2月17日 進攻作戦を開始した第15軍(飯田祥二郎中将)は、まずビルマ南部を攻略することとした。シッタン河を渡りべグー山系に突進、3月8日には首都ラングーンを占領した。シンガポールの占領に伴い、大本営は第25軍と第3飛行集団の多くをビルマに転用、ビルマ全域の攻略を開始した。 既に大きな損害を出し軍司令官が3人交代していた英印軍は、支那軍と連携して防戦しようとしたが、蒋介石は軍の南下を許さず、両軍の指揮関係に混乱が生じており英軍の増援はもはやビルマではなく、セイロンやインド東部に向けられていた。

昭和17年3月30日 トングーを占領した第55、56師団に続くべく、4月3日には全軍挙げての攻勢となった。連合軍は各所で頑強に抵抗し激戦となったが、我が軍は要地を占領、4月29日にはラシオで支那軍の退路を遮断した。引き続き追撃にうつり、昭和17年5月18日 ビルマ方面主要作戦終了を報告した。英印軍は多くの捕虜を残してインドに退却、退路を断たれた支那軍の多くは疲労と飢餓に倒れつつフーコン河川を経て逃れた。

連合軍の反攻(アキャブ・チンジット作戦)

南東方面の情勢悪化によりビルマ方面への反攻も予想されるようになると、第15軍のみでは手薄であるので、昭和18年3月ビルマ方面軍が新設され、逐次兵力は増加された。
連合軍はカサブランカ会談で昭和18年(1943)11月からビルマへの本格的反攻を開始することとした。米式装備の支那軍は雲南とレドの2方向から、英印軍はカレワからの地上進攻と南西沿岸への上陸作戦の2方向からと予想された。この反攻のため、攻勢拠点を設けることとなり、南西ルートのために南西沿岸の戦略拠点であるアキャブの奪回作戦が開始された。

第1次アキャブ作戦(31号作戦)

当初アキャブ正面の防御に任じていたのは2個大隊基幹の宮脇支隊であった。英印軍は昭和17年末ごろからこの正面に進出して激戦が展開されていた。第15軍は第55師団に敵撃破を命じるとともに、有延支隊に進出を命じた。通過不能と思われたアラカン山系方面から側背を突かれた第14インド師団は、包囲され大損害を受けて敗退、連合軍の反抗の初動は失敗に終わった。

第1次チンジット作戦

昭和18年2月14日 オード・ウインゲート准将指揮の英国空挺部隊(以下ウインゲート旅団)は、2グループ7個縦隊に分かれて(約3200名)中部ビルマに潜行を開始、空中補給を受けつつアラカン山系を越えて我が後方地域に潜入、鉄道や橋梁を爆破、後方攪乱に任じた。 第15軍は直ちに各師団に掃討作戦を命令。激しい掃討作戦の結果、ウインゲート旅団は大損害を受けて3月24日撤退を開始、約4ヶ月に渡り分散しつつ帰還した。
作戦は失敗したが、チャーチル首相に賞賛されたウインゲートはこの行動に自信を持ち、以後空挺部隊の拡大に努めることとなった。

第2次チンジット作戦(英軍呼称 サーズデイ作戦)

昭和19年2月 ウインゲート旅団は2回目のビルマ侵入を開始した。6個集団約9000名を2波に分け、前回の徒歩に対し今回は大量のグライダーを使用、ノルマンディ作戦までは空挺作戦としては最大規模のものであった。 日本軍はインパール・フーコン両作戦の後方を攪乱され掃討に努めたが、敵を完全に捕捉することはできなかった。なお3月24日 ウインゲートは飛行機事故で死亡した。

インパール作戦

第2次アキャブ作戦(イ号作戦)

英印第15軍団は昭和18年末から再びアキャブに向い攻撃を開始していた。我が軍はインパール作戦を容易にするため、昭和19年2月4日から、桜井徳太郎少将指揮の部隊は、東方から敵の側背に進出、正面からの第55師団(花谷中将)主力部隊とともにシンゼイワ盆地で英印第7師団主力を包囲した。
第1次アキャブ作戦の再来と思われたが、敵は戦車百数十台からなる円陣で攻撃を阻止し、増援兵力と補給品を空輸して抵抗した。軽装備の日本軍には包囲はできても攻略する力はなく、2月26日包囲を解いて適時後退。第2時アキャブ作戦は不成功に終わった。

インパール作戦(ウ号作戦)

ウインゲート旅団の侵入によって、アラカン山系を越える作戦の可能性に着目した第15軍司令官・牟田口中将は、インパール方面への進攻を強硬に主張した。3週間分の糧食を携行し3個師団で急襲すれば短期間でインパールを占領し、インド独立工作も容易となると判断したのである。南方総軍、ビルマ方面軍は兵站の見地から難色を示したが、対インド工作は大本営にとっても魅力的であり徐々に悪化する戦局を打開する意味からも準備が進められた。

昭和19年3月8日 第33師団はチンドウイン河を越えた。第15、第31師団は3月15日に続き、各数縦隊に分かれてインパールに向けて進撃を開始した。作戦は順調に進むと思われたが、日本軍の補給線の延びきったインパール平地で決戦を計画した英第14軍スリム中将の作戦であった。英印軍は空輸等でインパールとコヒマに増援部隊を急送し、インパールの確保に努めた。一旦はコヒマを占領したものの、補給を欠き軽装備の第15軍には、空地一体となった英印軍を撃破する力はなく、逐次戦力を消耗した。
牟田口軍司令官は部隊を督励し攻撃続行を強く命令したが、山内第15師団長は胸部疾患と作戦不徹底から、柳田第33師団は作戦中止を意見具申、佐藤第31師団長は無断撤退を行い夫々解任され、昭和19年7月10日 ついにインパール作戦は中止された。
第15軍は後退に移ったが、体力を消耗しきった部隊の後退行動は雨季のなかで惨憺たるものとなった。

フーコン作戦ほか

北ビルマを作戦担任とする第33軍(本田中将)は、このころフーコン正面の米軍装備の支那軍、雲南正面の支那軍の反抗を受けて苦戦していた。逐次戦力を消耗して崩壊の危機に達したと判断された昭和19年6月末 ビルマ方面軍は北ビルマ放棄を決定、第53師団の援護下に第18師団を後退させた。またミートキーナ飛行場がガラハット挺進部隊によって占領され(5月17日)交通の要衝ミートキーナに対し攻撃が開始された。 第56師団は水上少将指揮の1個小隊他の増援部隊と丸山大佐指揮の第114聯隊とで迎え撃ち、約80日間の激闘が展開されたが、限界に達し8月2日水上少将は残存部隊の撤退を見届けた後に自決した。
ビルマ戦線は全面的に崩壊し始めていた。

断作戦

蒋介石は、遮断された印支地上ルートの再開を目指して約16個師の雲南遠征軍を派遣し、反攻を開始した。第56師団(松山中将)は、騰越、拉孟、竜陵、芒市、平戞などの要地を堅固に守備するとともに、抽出した兵力で果敢な反撃を繰り返して防戦した。しかし彼我の兵力の懸隔が著しく各要地守備隊は敵の重囲に陥るようになった。インパール作戦が失敗に終わった以上その援護作戦としての雲南持久作戦は意義を失っており、各守備隊の撤退は戦略上当然の要請であった。

第1期断作戦

拉孟、騰越守備隊を救出し、印支ルート遮断を確実にするため、第33軍は「断作戦」を開始した。
まず第56師団が、続いて第2師団を併列して攻撃を開始した。我が軍は各地でこれを撃破したが数にものを言わせる米式装備支那軍は進出を食い止め、「平戞」守備隊は救出したが「拉孟」、「騰越」守備隊の救出には失敗した。

「拉孟」は金光少佐以下約1260名が守備し、6月2日から支遠征軍の猛攻の反撃を加えていた。激闘3ヶ月、木下中尉と1名の兵のみが命令による報告のため脱出した以外、総員玉砕した。
「騰越」は蔵重大佐以下約2025名が守備し、拉孟と違って完全なる城郭都市であり、街の周囲は高い城壁で守られていた。戦闘は6月27日から開始され、戦死した蔵重大佐に代わって先任第9中隊長大田大尉が指揮をとり、9月1日からは壮烈なる市街戦が展開された。9月8日 残存300となった守備隊は訣別電報を発信、最後の玉砕突撃を敢行したのは9月13日であった。
敵将蒋介石はその勇戦敢闘を賞賛して「ビルマの日本軍を規範とせよ」と全軍に訓示した。

第2期断作戦

太平洋方面の戦局悪化に伴い第2師団はサイゴンに転用されることとなり、雲南正面は第56師団・吉田支隊(第49師団の第168聯隊基幹)のみで持久せざるを得なくなった。第1次断作戦で損害が大きかった支遠征軍は兵力を補充し、昭和19年11月1日 全面攻勢を開始した。竜陵及びバーモに危機が迫り、第33軍はバーモ守備隊を救出するとともに第56師団で持久作戦を実施した。また第15軍との間隙を突破されることを恐れ、第18師団主力をモンミット付近に配置した。

第3期断作戦

第33軍は、竜陵から西南進する支那遠征軍とバーモから南下する米支軍に対し、持久戦を続けた。引き続く戦闘に兵力比は15対1となり、果敢な反撃を反復しつつ持ちこたえた。戦線は錯綜し激闘が続いたが軍は遂に昭和20年1月末 モンユからの撤退を命令、印支ルートの遮断は終わりを告げたのである。

盤作戦(イラワジ会戦)と完作戦

第15軍(司令官片村中将)はイラワジ河に向って英印第14軍(司令官スリム中将)に追尾されながら悲惨な退却を続け、雲南正面に危機が迫っていた。 インパール作戦前と比較して1/5程の戦力しかなく、火砲・弾薬はほとんど払底していた。一方ビルマ南西沿岸の第28軍(司令官桜井中将)にも危機が迫っていた。
英印軍は昭和20年1月3日アキャブ島、21日ラムレ島に上陸、この正面からも攻勢を開始、第28軍は、第55師団(花谷中将)でイラワジデルタを防衛、第54師団(宮崎中将)でアラカン山脈を利用した防戦を展開させた。

ビルマ方面軍(司令官木村中将)はトングー付近まで後退し戦線を縮小しようとする意見も出されたが、強気な田中新一参謀長によってイラワジ会戦案を固守することとなった。 このイラワジ河畔で中部ビルマを防衛する作戦を「盤作戦」、バセイン及び海上からの進攻に備える作戦を「完作戦」と呼称し、いずれも先の「断作戦」の延長であった。

マンダレーを簡単に奪還した英印軍は、2月14日イラワジ河を渡り、第255戦車旅団を先頭に3個旅団の兵力でメークテーラを目指した。メークテーラ市街には、400の兵力しかない歩第169聯隊と後方部隊、飛行場大隊の計4000名が守備していた。急遽かけつけた吉田部隊(歩3個大隊基幹)とともに防戦に努めたが圧倒され3月3日 同市は英印軍に制圧された。 ビルマ方面軍は第33軍をしてメークテーラ奪還を決意、しかし逐次増強される英印軍に対し、対戦車装備の乏しい我が軍の攻撃は成功しなかった。肉薄攻撃と夜襲を続ける中に第33軍の戦力はみるみる低下した。この間マンダレー東方の第15軍の戦線も崩壊しつつあり、ビルマ方面軍は3月28日メークテーラ奪還を諦め、盤作戦(イラワジ会戦) の中止を命じた。

ビルマ戦線の総退却

イラワジ会戦に望みを託していたビルマ方面軍には、まはや爾後の作戦のため有効な手段は残されてはいなかった。英印軍は機甲部隊を先頭に日本軍には目もくれず南下突進を続け、4月22日にはトングーを通過、首都ラングーンに向った。
昭和20年4月23日 木村方面軍司令官はビルマ政府や日本大使館・居留民に対する処置も不明のまま、ラングーンを脱出後方200Kmのモールメンに撤退した。方面軍司令部のラングーン撤退は、日本軍のラングーン放棄を意味し、大混乱の中5月3日 英軍によって首都は奪還された。
敵中に残された各軍は敵中を潜行・突破してシッタン河を渡り7月下旬、多数の犠牲を伴いながらもシッタン東岸に兵力を展開し防戦中に終戦を迎えた。



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