印度洋・珊瑚海海戦/暫定作成


印度洋作戦

我が陸軍によるシンガポール陥落によって、英国東方艦隊の拠点はジャワに退いた。
この残存艦隊はABDA艦隊に合流したが、「スラバヤ沖海戦」「バタビヤ沖海戦」によってほとんど壊滅した。更にビルマ作戦を進行しつつあった我が軍は、ビルマにおける航空撃滅戦を制し、連合国軍は逐次インド基地へと後退した。 いまや連合国/特に英国にとってインド洋に危機が訪れつつあった。
英国としてはセイロン島に有力な艦隊を配備して防衛態勢を固める計画ではあったが、日本軍の急進撃の前に基地網の構成が間に合わなかった。マレー沖海戦で戦死したトム・フィリップ中将の後任として独戦艦ビスマルク追撃で名を挙げたジェームス・ソマービル大将を東洋艦隊の司令長官に任命し、その要請に応じて東方艦隊を大幅に増加した。 形の上では大型空母2、小型空母1、戦艦5、巡洋艦計7を基幹とする大艦隊ではあったが、大部分は旧式艦である上に練度は不十分で、空母艦載機は著しく不足していた。 ソマービル長官は我が艦隊のセイロン島攻撃の予想に際し、決戦を避け艦隊保全に努める方針をとった。

大本営では、@セイロン島攻略、A独・伊との中東での連携(西亜打通作戦)も検討されたが、インド洋における連合軍の基地航空戦力等を考慮して中止され、セイロン島攻撃を含む印度洋作戦のみ実施されることとなった。 印度洋作戦は、南方部隊指揮官近藤信竹中将の指揮下に機動部隊によるセイロン島の攻撃と敵艦隊撃滅を主体とし、マレー部隊による海上交通破壊・ベンガル湾北部の索敵攻撃を実施し、基地航空部隊と潜水部隊の一部が支援するものであった。

 昭和17年
 3月26日 セレベス島のスターリング湾を出港
 4月 5日 セイロン島コロンボを空襲 航空部隊・在迫船舶、基地施設に大損害を与えた。
 4月 9日 トリンコマリー(ツリンコマリ)基地を空襲 小型空母ハーミス撃沈

英国艦隊は日本艦隊を攻撃する機会をとらえ得ず、逆に機動部隊の空襲を恐れて旧式戦艦等の低速部隊をアフリカ東岸に後退させた。さらに5月31日 戦艦ラミリーズがマダガスカル島のディエゴワレズで我が特殊潜航艇の雷撃を受け大破 これによってインド洋東西両側間の制海・制空権は、一時完全に日本軍の掌中にあったが、間もなく我が機動部隊は 太平洋方面へと移った。

珊瑚海海戦

我が軍は1月23日ラバウルを占領、大本営はさらにラエ、サラモア、ツラギ、ポートモレスビーの攻略を指示した。オーストラリアを基地とする反抗を未然に防止するためである。 3月8日 ラエ・サラモアを占領したが、ツラギ、ポートモレスビーの攻略は延期されることとなった。
このころ連合軍は、米豪連絡線とオーストラリアを確保し、反抗準備の態勢を進めており、ポートモレスビーや豪州北部を基地として日本軍に反撃を加えていた。

この作戦は、敵の基地航空隊や空母機動部隊の反撃を予想される海域で、低速の攻略部隊の長距離機動をさせなければならないので、南洋部隊(指揮官 井上成美中将)は空母部隊の増強と事前の敵航空部隊の撃滅を希望していた。その結果、配属空母は2隻に増加されたが、インド洋作戦やミッドウエー作戦との関係で作戦実施が5月上旬に繰上げられ、かつ事前の航空撃滅作戦は実施されないこととされた。 そこで南洋部隊は先ずツラギを攻略して水上機基地を推進し、基地航空部隊の援護下に船団を進攻させ空母機動部隊をもって敵空母の出現に備えさせることとした。

一方我が暗号を解読してポートモレスビーを攻撃することを知った連合軍側は、英・豪の艦艇で増強された空母機動部隊を配置して待ちうけていた。また東京初空襲から帰投したハルゼーの機動部隊も南太平洋に向っていた。(結局間に合わず、不参加)

 昭和17年
 5月 3日 南洋部隊はツラギ島を占領 水上機基地の設置を開始
 5月 4日 敵空母機によるツラギ空襲、駆逐艦1、掃海艇1、駆潜艇1が撃沈
 5月 7日 給油艦と駆逐艦撃沈 敵空襲により空母祥鳳撃沈
 5月 8日 レキシントン大破(のち自沈)、ヨークタウン中破 翔鶴中破

空母に与えた損害では勝っていたが、戦死者数は我が軍の方が多く、ポートモレスビー攻略の目的は達し得なかった。艦載機と搭乗員の損耗は大きな負担となり、ダメージコントロール(造修能力)の差は、こののち発生するミッドウエー作戦に影響することとなった。



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