印度洋・珊瑚海海戦/暫定作成
印度洋作戦
我が陸軍によるシンガポール陥落によって、英国東方艦隊の拠点はジャワに退いた。 大本営では、@セイロン島攻略、A独・伊との中東での連携(西亜打通作戦)も検討されたが、インド洋における連合軍の基地航空戦力等を考慮して中止され、セイロン島攻撃を含む印度洋作戦のみ実施されることとなった。 印度洋作戦は、南方部隊指揮官近藤信竹中将の指揮下に機動部隊によるセイロン島の攻撃と敵艦隊撃滅を主体とし、マレー部隊による海上交通破壊・ベンガル湾北部の索敵攻撃を実施し、基地航空部隊と潜水部隊の一部が支援するものであった。
昭和17年 英国艦隊は日本艦隊を攻撃する機会をとらえ得ず、逆に機動部隊の空襲を恐れて旧式戦艦等の低速部隊をアフリカ東岸に後退させた。さらに5月31日 戦艦ラミリーズがマダガスカル島のディエゴワレズで我が特殊潜航艇の雷撃を受け大破 これによってインド洋東西両側間の制海・制空権は、一時完全に日本軍の掌中にあったが、間もなく我が機動部隊は 太平洋方面へと移った。
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珊瑚海海戦
我が軍は1月23日ラバウルを占領、大本営はさらにラエ、サラモア、ツラギ、ポートモレスビーの攻略を指示した。オーストラリアを基地とする反抗を未然に防止するためである。 3月8日 ラエ・サラモアを占領したが、ツラギ、ポートモレスビーの攻略は延期されることとなった。 この作戦は、敵の基地航空隊や空母機動部隊の反撃を予想される海域で、低速の攻略部隊の長距離機動をさせなければならないので、南洋部隊(指揮官 井上成美中将)は空母部隊の増強と事前の敵航空部隊の撃滅を希望していた。その結果、配属空母は2隻に増加されたが、インド洋作戦やミッドウエー作戦との関係で作戦実施が5月上旬に繰上げられ、かつ事前の航空撃滅作戦は実施されないこととされた。 そこで南洋部隊は先ずツラギを攻略して水上機基地を推進し、基地航空部隊の援護下に船団を進攻させ空母機動部隊をもって敵空母の出現に備えさせることとした。 一方我が暗号を解読してポートモレスビーを攻撃することを知った連合軍側は、英・豪の艦艇で増強された空母機動部隊を配置して待ちうけていた。また東京初空襲から帰投したハルゼーの機動部隊も南太平洋に向っていた。(結局間に合わず、不参加)
昭和17年
空母に与えた損害では勝っていたが、戦死者数は我が軍の方が多く、ポートモレスビー攻略の目的は達し得なかった。艦載機と搭乗員の損耗は大きな負担となり、ダメージコントロール(造修能力)の差は、こののち発生するミッドウエー作戦に影響することとなった。 |