◆一号作戦(大陸打通作戦)他 1◆

 ◆作戦の背景◆
支那大陸布陣図
昭和17年 南方作戦の順調な進展に伴い
蒋介石政府の首都・重慶を攻略する
構想がたてられた。

第5号作戦(当初51号作戦と呼称)である。

これは昭和17年秋以降実施予定であったが
ガダルカナル島やニューギニアの戦局が悪化したため、
結局支那大陸での攻勢は見送られた。

戦局全般のたてなおしのため支那派遣軍や関東軍から
兵力を引きぬいて補充する必要があり、
攻勢実施の余力はなかったのである。

 
しかし太平洋方面の態勢が急速に悪化した
昭和18年春 大本営において
支那大陸を南北に通づる回廊での
本土と南方の陸上交通路確保と沿線の米空軍B29基地の覆滅
並びに重慶軍の撃破と継戦意思の破砕
を狙う作戦が構想されるようになった。

このため絶対国防圏設定による合計10個師団抽出
−支那大陸からの精鋭5個師団の太平洋方面転用
 及び他5個師団の集結・転用準備−
を命じていたのを取り消し、
さらに関東軍などから多くの部隊を
大陸へ転用することとなったのである。

 

 昭和18年12月24日 『虎号兵棋』と称する兵棋演習によって作戦を内定し、
 昭和19年 1月24日 大本営は作戦目的を『敵空軍主要基地を覆滅』とする『一号作戦』実施を正式に命じた。
 東條首相兼陸相の‘要らざる欲を出すな’の一言によって作戦目的を絞ることとしたものであったが、
 支那派遣軍(畑俊六元帥)による作戦目的は

  @ 敵の撃滅 粤漢及び南部京漢鉄道沿線要地の占領確保
  A 敵空軍の主要基地の覆滅
  B 重慶政権の経戦企図の破砕衰亡

   とされた。

 大本営としては本作戦実施のため企図秘匿を重視し、当初は支那大陸における積極作戦を実施するが如く欺瞞し、
 かつ作戦・政略・宣伝・防諜など中央現地統一した計画のもとにこれを行うよう指導したが、
 敵は我が企図を察知していたもののようであった。

 当初敵は上海事変以来の主将である湯恩伯将軍の率いる9〜10個軍を以って対するものと判断していた。
 しかし精鋭なる機動兵団をはじめ他地区の救援兵力を集結して我が進攻に反撃するべく備えをしていたのである。

  敵交戦兵力
  18〜20個軍 35万から40万人

  我が兵力
  師団3個、戦車師団1個、独立旅団4個、騎兵旅団1個 計約15万

 敵兵力の半分以下であったが、従来の戦績による‘支那兵は弱い’という自信から作戦目的は達成できるものと考えられた。
 ともあれ北支から中支、南支、さらには貴州、広東、仏印までの支那大陸を打通するという壮大な野戦大作戦であった。

 
 ◆第1期作戦 コ号/京漢作戦◆

 そのころ京漢線(北京−漢口)の黄河鉄橋は敵の砲撃により破壊されていた。
 この大作戦は在支各軍間の陸路連絡の確保が大前提であり、まず黄河の鉄橋の修復が第一である。
 黄河鉄橋は全長3073M、この大橋の修理はかなりの困難が予想されたが、鉄道第6聯隊(聯隊長 小玉鉄太郎中佐)は
 異常なる努力をもってこの難工事にのぞんだ。
 第二野戦鉄道司令官 村冶敏男少将(25)、派遣鉄道監/鉄道練習部研主事 加藤肇大佐(35)らの協力を得て
 3月25日 遂に大修理を完了、北支方面軍以下の作戦遂行に自信を加えるに至った。

 第12軍は昭和19年4月17日夜 黄河を渡河、ここに『一号作戦(大陸打通作戦』は開始された。

 第12軍を主力とし、これに第11軍が協力し、南部京漢(北京−漢口)沿線を占領確保することが目的である。
 先遣隊は敵陣地を撃破し1部をもって19日夕までに鄭州を占領した。

 華南方面は艦船護衛の関係上約半月の遅延のやむなきに至ったが、華中方面は揚子江の増水期に入り運航効率があがり
 順調に進捗していた。
 この間第5航空軍は戦爆の各1部と直協隊の主力を新郷、彰徳ほかに展開してこれに協力した。
 殊に中牟付近の戦闘においては敵砲兵をほぼ壊滅させていた。

 4月29日 第37師団は許昌の攻略を開始した。
 許昌は三国志以来の軍の拠点で、その城には湯恩伯将軍率いる第29師団が守備していた。

 5月 1日 第12軍主力は許昌を占領 第11軍の一部は長台関から確山付近に向かい北面して攻勢を開始した。
 5月 9日 第27師団は確山に到着し、京漢陸路の打通に成功、南北の連絡を完成した。

 許昌攻略後、敵は主力を北方に移したために直ちに洛陽方面に旋回することに計画を変更、
 当面の敵を各個に撃破することに決定した。

 5月14日 北支那方面軍は、洛陽封鎖を命令
 野副兵団をして洛陽を封鎖すると共に、第12軍主力と第1軍の一部を以って西方に向かい追撃を続行した。

 
 ◆洛陽攻略◆

 5月19日 第63師団長 野副昌徳中将(22)を指揮官とする野副兵団に対して
 戦車師団の主力と第110師団の一部をもって洛陽攻略に任じた。
 野副兵団は直ちに洛陽外郭陣地に対して攻撃を開始した。
 しかし陣地堅固のため戦況は進展せず、北支方面軍は改めて第12軍をもって洛陽攻略を担任せしめた。

 5月23日1300 両正面から洛陽城の攻撃を開始
 洛陽北・東北正面からは第63師団主力西北から戦車第3師団の主力と歩兵6個大隊、砲兵3大隊である。

 5月24日 洛陽の敵に対して降伏を勧告したがこれに応じないため、1300 攻撃を再開ついに城郭の一部に突入した。
 5月25日 ついに史上名高い古都洛陽を占領、ここに京漢作戦は成功を迎えたのであった。

 これより先、第2線兵団であった第27師団が黄河橋梁を通過し武漢地区に南進し、北進してきた第11軍の部隊と合流した。
 これにより京漢陸路打通が成功、南北の連絡が完成した。
 またこれにより、米空軍の空襲によって途絶しがちであった陸上輸送が円滑に行われることとなった。
 武漢地区への輸送がそれまでの揚子江の船舶輸送に代わって陸上輸送が可能となったのである。


 ◆戦果・損害◆

 日本軍  支那軍
戦 死   840名 36700名
戦 傷  2300名 21868名
捕 虜       14000名

         一号作戦 2 湘桂作戦   


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