◆ マリアナ沖海戦1 (米軍呼称 フィリピン海海戦) ◆

 ◆ 作戦の背景 ◆

 昭和19年3月31日 聯合艦隊司令長官 古賀峯一大将以下の司令部が、
 パラオからミンダナオのダバオへ飛行艇で移動する途中、低気圧に遭遇し
 搭乗機が行方不明になるという事件が発生した。
 いわゆる「乙事件」である。 (詳細は別途紹介)

 古賀長官が策定していた作戦計画は「Z作戦」と呼ばれるもので、進攻してくる米艦隊が、
 マリアナ諸島かパラオまたはニューギニアを経て、フィリピン海域に侵入した際は
 聯合艦隊は全力をあげて出撃してこれに決戦を挑むというものであった。
 それは我が海軍伝統の「決戦思想」を受け継ぐもので、不利な戦況を逆転させようとする
 総力結集の「この一戦」主義であった。
 この「Z作戦」がマリアナ沖海戦のための「あ号作戦」の骨子となったもので、豊田新長官は
 古賀前長官の作戦計画を引き継いだのである。

 しかし「Z作戦計画」と司令部用暗号書、信号書などの機密書類は「乙事件」時にセブ島の
 ゲリラの手によって米陸軍情報部に運ばれていた。
 作戦は筒抜けであった。

 
 ◆ 米軍の作戦構想 ◆

 開戦の前後に発注した航空母艦22隻などは、1943年春から逐次就役するに至り
 同年秋以降大量の艦艇、航空機を持つに至ったニミッツ提督は、中部太平洋における大規模な反攻を開始した。
 11月21日 ギルバート諸島、翌年2月1日 マーシャル諸島に上陸、各占領するとともに、
 同17日 トラック島、23日マリアナに大空襲を加え大損害を与えた。
 マッカーサーも2月末アドミラルティ諸島に上陸これを占領し、両方面の攻勢は密接な連携を保ちつつ
 絶対国防圏の核心に迫り得るようになった。

 このようにマーシャル諸島に指向されているニミッツの中部太平洋路線と、
 マッカーサーのニューギニア路線の2方面作戦に惑わされて、我が軍は「いずれが米軍の反攻正面か?」
 の判断に迷うこととなった。敵の真意がわからないままに、海軍は中部太平洋方面(サイパンまたはパラオ)と
 壕北から比島に至る線の両方面に備えなければならなかった。

 
 ◆ 「渾」作戦 ◆

 マッカーサー軍は5月27日 ビアク島に上陸した。
 聯合艦隊は健闘する同島守備隊に呼応して、海上機動第2旅団を増援・逆上陸する「渾」作戦を支援するため、
 基地航空部隊を同方面の基地に移動させた。
 さらに左近允尚正少将率いる第16戦隊(戦艦1、重巡3 基幹)主力で上陸部隊の輸送を行った。
 ところが哨戒中のB24に発見され、敵の有力艦隊が存在するとの誤報によって作戦は一時中止される。
 6月10日 豊田長官は第2次「渾」作戦を発令して新たに第1戦隊司令官 宇垣中将を指揮官とした。
 第1次「渾」作戦の兵力に戦艦「大和」「武蔵」らを加え有力な艦隊となったが、
 米軍のマリアナ来襲によって6月13日 第2次「渾」作戦も中止された。

 「渾」作戦で、絶対国防圏でないビアク島への来攻に対し「あ」号作戦のため準備した決戦兵力の一部を投入した。
 これは「あ」号作戦命令の方針と一致しているとはいえず、
 しかも軍令部に相談したものではなく、聯合艦隊司令部独断で実施したことが明らかとされている。
 その結果決戦用の航空機が多数抽出し消耗していき、その後の「あ」号作戦に重大な影響を及ぼすこととなった。

 確かにビアク島は、戦略上の要衝で「戦局の分岐点たる関が原」(戦藻録)と言われるまでに重視されていた。
 しかし同時にこのビアク上陸は、サイパン上陸をカモフラージュするための米軍の牽制作戦でもあった。

 
 ◆ 「あ」号作戦準備 ◆

 海軍は、反撃戦力の中核である第一機動艦隊及び第一航空艦隊の戦備概成により
 5月下旬以降連合軍の絶対国防圏への来寇に際し、米機動部隊を撃破して連合軍の進攻に反撃を加え
 戦局の転換を図ろうとし、その作戦計画の検討を行っていた。
 連合軍の大規模な次期進攻は、5月末から6月中旬に行われるであろうと判断されていた。
 本作戦は「あ」号作戦と呼称され、由来はアメリカの「ア」をとったとも「あいうえお」の「あ」であるともいわれている。

 昭和19年5月3日 大本営はその作戦方針を指示し、同日聯合艦隊司令長官に親補された豊田副武大将も
 大本営の指示に基づき聯合艦隊「あ」号作戦命令(作第76号)を発令した。
 「あ」号作戦計画の要点は、敵状判断及び不足していた油槽船の状況から、
 決戦海面を @パラオ付近 A西カロリン方面 に選定し、潜水艦及び索敵機により
 早期に敵状を把握し、機動部隊・基地航空部隊の攻撃力を集中して一挙に米機動部隊を撃破、
 次いで攻略部隊を撃滅する方針であった。このため機動艦隊は中南部比島に待機し、
 基地航空部隊は主要基地に哨戒、迎撃兵力を配備し、攻撃集団を編制して決戦海面に機動集中できるようにした。

 そして機動部隊と基地航空部隊の協同に期待するとともに、機動部隊の決戦においては昼間強襲を建前とし、
 遠距離からの先制空襲(「アウト・レンジ Out Range」または「ロング・レンジ」戦法と呼称)を重視していた。

 
 ◆ 第一航空艦隊 ◆

 当時軍令部作戦課員だった源田實中佐が昭和17年末に着想したもので、内南洋の島嶼基地を不沈空母にみたてて
 基地航空部隊が空母部隊と同じように航空戦を行うというもので、昭和19年2月には13個航空隊が編成されていた。
 長官は猛将と定評ある角田覚治中将で、総数は1620機にのぼるはずだった。
 だが実状は、搭乗員が不足し訓練時間も少なく機材も足りず、中には定数の半分といった航空隊もあった。
 とはいえ、この一航艦が海軍の決戦の切り札的存在であったことは間違いなく、
 大本営直属の精鋭部隊として訓練完了までは日本本土で温存される方針であった。

 昭和19年2月23日 米機動部隊はマリアナ諸島に来襲した。
 5日前のトラック大空襲では捕捉できなかったが、今度は敵空母をうまく捕らえた。
 淵田先任参謀は、戦闘機進出が不十分であること、進出直後で成算がない、などの理由から
 飛行機の避退を進言したが「見敵必戦」を旨とする角田長官は聞き入れず、一航艦(61航戦)に攻撃を命じた。
 戦果は大型艦5隻撃沈破と報じられた (米軍発表では被害なし 飛行機が少数のみ)が、
 我が被害は甚大で、一航艦93機のうち90機喪失、サイパン、テニアンの基地航空隊の稼動数は12機のみとなった。

 この一航艦93機は真珠湾以来の熟練搭乗員が多数存在した精鋭であった。
 それが壊滅し爾後の戦力に影響するところ大なるものがあった。
 その後も一航艦は、米機動部隊のパラオやトラックへの空襲の際にたびたび迎撃に向い
 搭乗員と航空機を消耗していった。

 
 ◆ 参加艦艇 ◆

機動部隊 (第1機動艦隊)
司令長官   小沢治三郎 中将
参謀長   古村啓蔵 少将
本 隊 
甲 部 隊
第1航空戦隊 空母:大鳳 翔鶴 瑞鶴
第5戦隊 重巡:妙高 羽黒
第10戦隊 軽巡:矢矧 駆逐艦9
乙 部隊
第2航空戦隊 空母:隼鷹 飛鷹 龍鳳
  戦艦:長門
重巡:最上
駆逐艦7
前 衛 
第 2 艦 隊
第1戦隊 戦艦:大和 武蔵
第3戦隊 戦艦:金剛 榛名
第4戦隊 重巡:愛宕 高雄 摩耶 鳥海
第7戦隊 重巡:熊野 鈴谷 利根 筑摩
第2水雷戦隊 軽巡:能代 駆逐艦7
第3航空戦隊 空母:千歳 千代田 瑞鳳
補給部隊   油槽船5 駆逐艦2
別動浪速船団   油槽船1 軽巡1 駆逐艦3

第5基地航空部隊 (第1航空艦隊)
司令長官 角田覚治 中将
参謀長 三輪義勇 大佐
第61航空戦隊 9個航空隊 定数696機
第22航空戦隊 8個航空隊 定数552機
第26航空戦隊 3個航空隊 定数240機
第23航空戦隊 3個航空隊 定数240機
付属部隊 輸送機52 水偵10 ほか

 ただし損耗が続いて実稼動数は著しく減少しており、練度も低下していた。 6月5日現在 約530機

 
         マリアナ沖海戦2 海戦経緯   


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