昭和18年9月15日 新作戦指導方針 いわゆる「絶対国防圏」が策定された。
そこには南西諸島も戦備強化すべきとされたが、絶対国防圏のはるか後方の存在であった当時、重要性は低いものであった。
昭和19年2月17日 中部太平洋のトラック基地の大空襲は、大本営に非常な衝撃を与えた。
これにより本土及び南方地域に対する東方からの脅威が著しく増大し、
台湾及び南西諸島の防備強化の必要性は一気に高まった。
昭和19年3月22日 大本営直轄として第32軍の戦闘序列が下令され、
あらたに軍司令官渡辺正夫中将(21)が任命された。
しかし当時の軍兵力は2個混成旅団と1個混成聯隊を主体とした、南西諸島全域で総兵力約2万という
警備部隊の域を出ない小編成であった。
昭和19年6月15日 米軍はサイパン島に、続く7月にはグアム島にそれぞれ上陸を開始した。
それを受けて大本営は、南西諸島の地上兵力を画期的に増強することを決意、
軍司令官も病弱 (必要以上に沖縄住民に危機感を煽ったため中央からは不評) であった渡辺中将にかわり
陸士校長であった牛島満中将(20)が新たに任じられ、長参謀長以下幕僚の陣容も著しく強化された。
昭和19年8月 牛島司令官の一行が首里に到着した。以下
北満から伝統ある第9師団、同じく北満で訓練中の第24師団、大陸打通作戦に参加した第62師団
などが続々沖縄本島に配置された。
なかでも特筆すべきは、軍直轄部隊である和田孝助中将の第5砲兵司令部であった。
野戦重砲兵2個聯隊 重砲兵1個聯隊 独立重砲兵1個大隊 臼砲1個聯隊
迫撃砲4個大隊 野戦高射砲4個大隊 独立速射砲3個大隊 他からなり、
75ミリ以上の火砲計400門以上という大砲兵力の集中運用は、我が軍の太平洋戦場においてかつてなかったことである。
北島驥子雄と並び称される砲兵界の権威が、関東軍の精鋭砲兵部隊を率いて沖縄に配置されたことは、
大本営の並々ならぬ決意の現れであった。
このように歩兵3個師団1個旅団、さらには強力なる砲兵団が沖縄本島に集結し、加えて海軍部隊も約8千人所在し、
その兵員数は10数万にも達した。(他に宮古島に第28師団 等)
第32軍の防備作戦は、まさに必勝を期して鋭意「決戦態勢」を固めていたのである。
◆決戦構想◆
展開を終えた各部隊は陣地築城を進める一方、10月中旬から軍司令官統裁の下各種の演習が猛烈に続行された。
各師団ごとの予想上陸点への機動集結、敵橋頭堡に対する歩兵部隊の夜間攻撃、
そして軍作戦の主眼である軍砲兵による橋頭堡撃滅射撃等である。
昭和19年10月下旬の糸満海岸で実弾をもって行われたこの演習は壮観を極めた。
軍首脳は作戦成功の自信を一層強めるとともに、招待された島田県知事以下官民もこの壮大な砲撃を見て
軍首脳以上に喜んだのもうなずけた
敵の進攻に際しては、上陸第2夜に数百門の火砲の集中攻撃と3個師団の大反撃とをもって撃滅するという『決戦構想』であった。
第32軍は「必勝の信念」をもって秋の実りを迎えようとしていた。
◆第9師団の抽出◆
昭和19年10月20日 米軍の比島上陸に伴い「捷号作戦」が発動された。比島決戦の開始である。
これにより沖縄本島最精鋭師団を比島決戦参加のため抽出/転用されるという「事件」が発生した。
(実際は、比島作戦転用の穴埋めのための台湾転用)
決戦構想の根底を覆すこの通達に第32軍首脳は当然激しく反発し、「軍司令官の意見書」を起案し、
台湾/台北での大本営・台湾軍・第32軍の合同会議に断固たる態度で臨んだ。(出席者八原大佐)
それは4ヶ条からなるもので、中でもその2か条は
3)軍より若し1兵団を抽出するとしては宮古島若しくは沖縄本島の何れかを放棄するを要す
4)大局上より比島方面の戦況楽観を許さないとすれば(略)第32軍の主力を真に重要と判断される方面に転用するを可とす
と、沖縄防衛不能と全軍比島出撃を主張する過激な内容のものであった。
11月 4日 台北会議は重苦しい雰囲気で終始し、要領の得ないまま散会となった。が
11月13日 軍司令官一任による抽出命令が大本営よりだされ、結局第9師団が台湾へと転出したのであった。
この「第9師団抽出事件」は、第32軍の大本営・第10方面軍(台湾軍)に対する不信を産んだ。
他の将兵の士気にも大きな影響を及ぼしただけでなく、同師団の守備地域の島民(島尻地区)に対しても大きな衝撃を与えた。
◆戦略持久構想◆
第9師団の転用により3分の2となった部隊兵力では、従来の決戦構想を変更せざるを得ない状況に陥り、
『持久作戦』に転換することとなった。
昭和19年11月26日に「北方主陣地帯正面において戦略持久を策する」という新方針を確定した。
これにより嘉手納地区の2つの飛行場方面に対する配兵は不可能となり、完全に放棄する形となった。
大本営及び直上の台湾軍との間に相当波瀾を生じたが、中央不信も手伝って第32軍はその方針を変更することはなかった。
作戦構想の変更により、全将兵は沖縄半島中部以南の地区に集中配備されることとなった。
各部隊は1ヶ月半にも及ぶ陣地替えを行い、新作戦方針の実施に備えた。
◆第84師団の増援中止◆
昭和20年1月23日 第9師団の埋合せとして、大本営から姫路の第84師団増援の電報が届いた。
第32軍は、再び予想される陣地変更の問題もあったがひとまず安堵し、その決定に喜んだのもつかの間、
その日の夕刻、派遣中止の電報がはいった。
これは、既に本土決戦構想を固めつつあった大本営が海上輸送の困難(既に本土近海の制海権はなかった)とも併せ鑑み、
新任の参謀本部第1部長 宮崎周一中将をしてその決定を覆した結果であった。
この「朝令暮改」により第32軍の中央不信は決定的となった。
現地第32軍と、大本営との間には根本的な作戦・用兵思想の乖離が存在し、作戦準備段階から調整されることはなく、
こののち米軍上陸後作戦遂行上大きな問題となって露呈することとなるのである。
昭和20年1月中旬、戦力の自力増強のため防衛召集を実施した。
その数約2万5千で、17歳以上45歳未満の男子が編成された。
また、中学校生徒からなる鉄血勤皇隊、女子生徒からなる衛生勤務員が合計2千に達した。
◆戦力比較◆
日 本 | 米 軍 | |
陸上兵力 | 86400名 | 183000名 (正面兵力) 548000名 (含予備・後方部隊) |
戦車隊 | 27両 (中戦車14 軽戦車13) |
390両 (4個戦車聯隊 1個火炎戦車大隊) |
◆沖縄本島 守備隊主要幹部◆
第32軍司令官 | 牛島 満 中将 | 20 |
軍 参謀長 | 長 勇 中将 | 28 |
高級参謀 | 八原 博通 大佐 | 35 |
第24師団長 | 雨宮 巽 中将 | 26 |
同参謀長 | 木谷 美雄 大佐 | 34 |
第62師団長 | 藤岡 武雄 中将 | 23 |
第63旅団長 | 中島 徳太郎 中将 | 27 |
第64旅団長 | 有川 圭一 少将 | 25 |
同参謀長 | 上野 貞臣 大佐 | 30 |
独立混成第44旅団長 | 鈴木 繁二 少将 | 26 |
第5砲兵司令官 | 和田 孝助 中将 | 23 |
沖縄方面根拠地隊 司令官 |
大田 實 少将 | 41 |
先任参謀 | 前川親一郎 大佐 | 50 |
南西諸島航空隊司令 | 棚町 整 大佐 | 51 |
第951航空隊 派遣隊司令 |
羽田 次郎 大佐 |
◆米軍主要幹部◆
第10軍司令官 | SB バックナー 中将 |
第24軍団(南部上陸部隊) | JR ホッジ 少将 |
第 3海兵軍団(北部上陸部隊) | RS ガイガー 少将 |
第96師団 | JC ブランドレー 少将 |
第 7師団 | AV アーノルド 少将 |
第27師団 | GW グリーナー 少将 |
第77師団 | AD ブルース 少将 |
第 1海兵師団 | PA デルベァル 少将 |
第 2海兵師団 | TA ワットソン 少将 |
第 6海兵師団 | LC セパード 少将 |
◆第32軍 首脳陣◆
中 第32軍司令官 牛島 満中将
右 第32軍参謀長 長 勇中将
左 沖縄方面根拠地隊司令官 大田 實少将
軍司令官 牛島 満
長大な体躯の堂々たる将軍。 教育畠勤務が多く、その人物を察するに足るものがあった。
万事を部下に任せ、責任は自分が負う。郷土も同じ西郷隆盛や大山巌元帥を彷彿とさせた。
部下を叱ることはまれで、公平と正直を併せ持つ真摯・温厚な将軍であった。
参謀長 長 勇
元「桜会」の有力メンバー。豪放磊落、奇言奇行に富む人物であった。
第10師団歩兵団長の時、兵達に浪花節で訓示を与えた といった逸話の多い陸軍部内でも有名な豪傑。
部下の面倒見は良く人望が厚い反面、自分と同等以上の人物とはしばしば衝突した。
非常に「政治的」な軍人で人脈が広く行動的であった。また緻密で冷静な思考力も有していた。
高級参謀 八原 博道(作戦主任)
陸大・恩賜軍刀組の頭脳明晰なる参謀。陸大教官を長年努めており、作戦立案には自信と説得力を有していた。
米国駐在経験もあり、慎重で合理的なその戦術知識は自他ともに認めるものであったが、
陸大兵学教官からの転任は、自分の能力に比してあまりにも役不足であると、正直失望しての沖縄赴任であった。
沖縄戦中八原大佐の言動は、各方面に波紋をなげかけることになる。
人の好き嫌いのはげしい八原大佐であったが、長参謀長の豪放な性格には惹かれていた。
また長参謀長も、性格的には水と油の八原大佐の頭脳を評価し、緻密な性格の長所を認め信頼していた。
以上のように軍司令部首脳はまさに3者3様であったが
お互いの欠点を補うが如き役割を示し、概ね円滑に機能されたのである