フィリピン沖海戦3

  スリガオ海峡夜戦/第1遊撃部隊支隊と第2遊撃部隊の戦闘

10月22日 1530  西村艦隊抜錨、ブルネイ出撃
10月24日 0200  「最上」水偵1機発進、0650に敵艦発見を打電
 志摩艦隊 コロン湾出撃
  0858  空襲によって、志摩艦隊に合流予定の「若葉」沈没
 結局別働の駆逐艦3隻は志摩艦隊と合流できずマニラに回航。
 志摩艦隊は早くも駆逐艦3の戦力減
  0940  (以下西村艦隊の動向)
 米艦上機27機来襲、撃墜3 空襲は結局この1度だけであった。
 「扶桑」直撃弾1、「最上」機銃掃射死傷8名、「時雨」直撃1死傷11名
  1400  スルー海の東端に到達
  2013  栗田艦隊に、25日0400突入の予定と打電
 栗田艦隊が予定よりも大幅に遅れているのを承知しながら
 単独で突入を図ったものと思われる
  2252  「時雨」魚雷艇3隻発見 同時に射撃開始
10月25日 0018  「最上」魚雷艇4隻発見 敵味方ともに機銃射撃するも共に命中せず
  0202  20ノットで進行した西村艦隊は航路ゼロ=北進開始
  0216  魚雷艇群の襲撃終了、我が方に被害なし
 米魚雷艇493号 破壊のち沈没 3名戦死
  0253  「時雨」敵駆逐艦隊発見
  0309  一斉に照射射撃開始
  0310  「最上」煙幕裡に駆逐艦2隻発見、直後に「扶桑」雷撃を受け速力低下
  0316  西村司令官は緊急右90度一斉回頭、各艦一斉に砲撃開始
 視界不良、照準は不十分な上に敵艦隊は煙幕を展開
  0320  魚雷命中「山雲」轟沈、「満潮」航行不能、「朝雲」艦首切断、「山城」左舷後部に命中
 旗艦「山城」速力低下、艦橋付近に火災発生3番砲以下使用不能
 1、2番砲のみで応戦するも有効弾なし、その後左舷中部に魚雷命中 艦内通信不能
  0324  進撃中の志摩艦隊の「阿武隈」 左舷前部に魚雷命中 30名戦死
  0338  「扶桑」航行不能となり大爆発、船体は2つに折れ炎上
  0340  「山城」を先頭に「最上」が続き、右方に「時雨」続行
  0350  「満潮」沈没 敵戦列隊の砲火の下に入り間断ない艦砲射撃を受ける
  0402  「最上」艦橋と防空指揮所に3発直撃 艦長、副長、航海長、水雷長ほかほとんど戦死
 砲術長 砲撃指揮所から指揮をとり、南方に離脱を決意
  0405  志摩艦隊 戦場到着
  0415  「最上」 志摩艦隊が北上するのを確認
  0419  「山城」魚雷2命中、やがて転覆し艦尾から沈没
  0424  志摩艦隊の「那智」と「足柄」 各8本の魚雷発射 (島影を誤認)
  0430  志摩長官 戦況不明のため反転の命令
 「那智」と「最上」衝突 炎上中の「扶桑」沈没
  0440  西村艦隊の「時雨」、志摩艦隊を確認するも単独南下、戦線を離脱
  0449  志摩長官 西村艦隊全滅、「最上」大破炎上と打電
  0615  志摩艦隊 全部隊合同
  0721  「朝雲」沈没
  0910  退避中の「最上」 米雷撃機17機の攻撃、直撃弾2
  1307  「最上」自沈 僚艦「曙」の雷撃による
 戦死192名 終始敢闘し艦橋全滅後も戦意と戦闘力を失わなかった
 最上の勇戦は、本作戦中特筆すべきことの一つであろう。

 オーデンドルフ少将指揮下の米艦隊による迎撃計画は周到であった。
 魚雷艇は3隻編隊の13個小隊に細分され、次いで3個19隻の駆逐艦隊、最後に戦艦・重巡群が頭を抑えるという
 水も漏らさぬ布陣であった。
 西村艦隊はひたすらこの鉄壁の布陣に向って玉砕覚悟の猛進を続けていったのである。

 西村艦隊は「時雨」1艦を除いて全滅し、志摩艦隊は米艦隊に一撃を加えることもなく反転した。

西村艦隊陣形   
  
  西村・志摩艦隊 オルデンドルフ艦隊
戦 艦   2   6
重巡洋艦   3   4
軽巡洋艦   1   4
駆逐艦   8  28
魚雷艇   0  39
戦死 約4000名 39名
負傷   114名
沈没 戦艦2
重巡1
駆逐4
魚雷艇1
駆逐1 損傷

 なお、「時雨」1艦を残して壊滅した西村艦隊の生存者は
 「山城」10名、「扶桑」10名、駆逐艦3艦計40数名 合計60数名に過ぎず、
 沈没後自力で島まで泳ぎ着いても、日本軍に悪感情を持つ比島の土民に殺害された者も少なくなかった。

 
 西村司令官と志摩長官

 西村艦隊の主力「山城」と「扶桑」は、老朽で低速のため第1線に向かない予備練習艦として
 主に内海方面で後方任務についていた。捷号作戦に際しては、海上兵力の全戦力を結集するため、
 昭和20年9月10日に両艦を主力とする第2戦隊が新たに編成され、
 軍令部付の西村中将が司令官となった。 同戦隊がリンガ泊地に到着したのは10月10日で、
 出撃前の実地訓練はほとんど行うことができなかった。
 さらに栗田艦隊に策応する支隊としてその任務が明かになったのはブルネイ出撃の前日であった。
 出撃前の各艦長との作戦打ち合わせは極めて簡単で、西村司令官は会議に出席しなかったといわれている。
 既に西村中将は、本作戦の性格が生還を期し難いものとして諦観しており、
 捷号作戦を特攻的な作戦として理解していたからであろう。

 栗田艦隊小柳参謀長 「最後の場面に臨んで遅疑逡巡することなく、
                獅子奮迅の如く断固として突撃した猛勇な面は彼の面目躍如たるものがあるように思う」

 小沢長官は、「あのとき、まじめに戦争をしたのは西村一人だったよ」、と元副官の麓中佐に語ったいう。

 一方志摩中将率いる第2遊撃部隊(第5艦隊)は、海上機動反撃の基幹部隊として
 南西方面艦隊(三川中将)に編入されていた。当初は陸軍部隊の増援輸送に任じられていたが、
 陸軍の計画が遅延したためブルネイでの待機を命じられた後、
 「機動部隊に復帰して牽制作戦にあたる」ことが通告されていた。
 しかし馬公入港後は再び輸送任務となり、度重なる命令変更に業を煮やした志摩長官の具申により、
 正式にレイテ突入の任務を明らかにされたのは実に出港前日の23日のことであった。
 (志摩中将は命令下達を見越して行動していたが)

 栗田艦隊小柳参謀長 「受令者たる指揮官こそいい迷惑で、その焦燥苦慮は同情に耐えない」

 主として空母の警戒任務のための作戦訓練のみを実施してきた志摩艦隊にとって、
 レイテ突入といった水上艦艇による突入作戦を想定した研究や訓練は行われていなかった。
 さらに志摩艦隊と西村艦隊との指揮関係は、「協同」という不明確な立場におかれたままであり、
 両部隊の連絡は直接何もなされないまま、個々にレイテ突入という事態となったのである。

 ともあれ西村艦隊に続いて突入した決戦場面で、反転したことに対する批判は少なくない。
 志摩中将と西村中将は海兵39期同期であり(栗田中将38期、小沢中将37期)、志摩中将が先任であった。
 海大出で通信の専門家として軍令部8課長、通信学校校長などを歴任、陸上勤務が多く実戦の経験は少なく、
 殊に捷号作戦のような『乾坤一擲の決戦』『起死回生の作戦』には不向きではなかったか、とする意見もあった。

         フィリピン沖海戦4/エンガノ岬沖海戦 小沢艦隊の戦闘   


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