終戦時の対ソ戦

 日ソ関係の推移概略

 昭和7年・満州国建国後、満ソ国境紛争が次第に頻発するようになり日ソ関係は険悪化した。
 しかし昭和14年(1939年)9月 第二次欧州大戦(第二次世界大戦)が勃発したあとは、
 新たな世界情勢に対応する日ソの思惑が一致した結果、昭和16年4月13日「日ソ中立条約」が成立、
 日ソ関係は平穏に推移した。

 昭和16年6月22日 独ソ戦勃発に伴い、日本は対ソ戦に備えて関東軍増強のための動員
 「関特演」を行ったが、独ソ戦進展の判断と南部仏印進駐に伴うアメリカの対日全面禁輸によって、
 8月9日 年内武力行使企図を中止、「北進」を断念するに至った。
 この「南進」か「北進」かあるいは「南北両準備案」を巡っては、海軍は対ソ戦に絶対反対、
 陸軍省側は独ソ戦を楽観しておらず、熟柿の落ちるのを拾うような対ソ慎重姿勢/いわゆる熟柿主義を主張、
 渋柿でも叩き落そうという参謀本部側の強硬な主張とは隔たりがあった。

 ゾルゲを通じる諜報等により日本が「北進」を断念したことを承知したソ連は、
 9月以降、極東から本格的な兵力抽出を行った。
 すなわち極東の対日正面兵力を対独戦線へ振り替えることを実施し、
 昭和16年(1941)中に18個師団がモスクワ周辺の戦闘に参加して独ソ戦線の危機を救ったのである。
 これによって極東ソ連軍はある程度減少したものの、大規模な召集等によって
 兵員数そのものはむしろ増加しており、ソ連の用心深さを物語っている。

 独ソ戦に関して日本は対ソ参戦の義務はなく、むしろ日ソ中立条約を遵守すべき義務を負っていた。
 そもそも三国同盟の前身の日独防共協定は、共産主義防止−打倒の根底から出発したものであり、
 同防共協定が三国同盟に発展する際はソ連を抱き込み、
 英米に対する日独伊ソの四ヶ国同盟を企図したものであった。
 世界の主要国が枢軸、連合の両陣営に分かれて戦う世界大戦の中で、
 ソ連は独ソ戦に全力を傾注する一方、日本とソ連の間だけが中立関係を維持するという
 奇妙な状態が続いていた。

 
 国際信義

 昭和16年6月22日 日本は独ソ開戦第一報をドイツからの公電ではなく同盟通信社から報告で知った。
 この独ソ戦勃発に際し、ヒトラーが日本に進攻開始日時や具体的進攻要綱などを事前通告しなかったことに対して、
 日本国内には憤激する向きが多かった。
 さかのぼれば昭和14年8月の「独ソ不可侵条約」締結は、「日独防共協定秘密付属協定」の違反であり、
 複雑怪奇の一言を残して退陣した平沼内閣の例に見られるように、ドイツの信義違反は前例があり、
 日本は独自の道を進むべしとする声が少なくなかった。

 しかし対米交渉の時から日本の国策は三国同盟の立脚が前提であり、
 初動における独軍のあざやかなる大戦果は大勢を魅了し、
 結果として「日ソ中立条約」よりも「三国同盟」に信義を立てんとする空気が一層助長された。
 三国同盟に信義立てするということは、極東ソ連軍を釘づけにした上で、
 好機に乗じて撃破するということを意味した。

 これに対し、日ソ中立条約を一方的に破棄するという国際信義に反する武力行使は、
 必ず多くの敵を作り国を誤ることになる。また見え透いたオプチュニズムは皇軍の名折れになる、
 という意見も少なくなかった。
 7月31日 杉山参謀総長が上奏のため拝謁した際、陛下は
 「南部仏印進駐が米国の対日硬化を誘発したのではないか」と仰せになったうえ、
 「関特演などを続けるうちに日本の立場は次第に悪くなり、極東ソ連軍の西送もかえって鈍るのではないか、
  関特演はやめてはどうか」 と仰せられた。

 まさに的確な御指摘であったが、「関特演」のねらいが不測の変に応じるためであることと、
 対ソ交渉に対し後拠としての役割があること等を申し上げて、ようやく御納得戴けたのであった。
 ともかく大義名分のない戦いを起こさずにすんだことはせめてもの幸いであった。

 なお「関特演」がソ連に対する不信行為であるのは事実だが、武力行使可能な情勢となった場合
 必ず対ソ攻撃をしたかどうかは全くわからない。
 「関特演」をソ連の中立侵犯・武力侵攻と同列に論じることはできない。

 
 関東軍の作戦準備

 日本陸軍の満州における作戦は、日露戦争以来寡をもって衆を撃つ(以寡撃衆)攻勢作戦によって
 防衛をまっとうすることを主眼としていた。
 「関特演」以降極東ソ連に対して弱い立場となった日本軍は、攻勢から防勢に転換すべき時期を迎えていた。
 にも拘わらず、南方への兵力抽出に対する協力のみ指示され、対ソ刺激回避からの「静謐確保」以外に
 作戦変更については中央からは何の示唆も与えられなかった。

 大本営による持久守勢への転換が発令されたのは
 昭和19年9月18日 絶対国防圏構想から1年後のことである。
 だがこの時の構想は、実際に行われた対ソ戦とは異なり、前方国境地帯における抵抗を重視したものであった。
 その後昭和20年に入り、関東軍の対ソ作戦任務は、
 「満州の広域を利用して侵攻する敵野戦軍を撃破するとともに
 南満及び朝鮮の要域を確保して持久を策し、帝国全般の作戦を有利ならしむ」 という思想に大きく後退した。

 関東軍総司令部は、作戦準備が遅れているため準備できるまでは来てほしくないという願望があり、
 中立条約の存在やソ連軍の攻撃準備未完の推測をもとに、状況分析は希望的観測に流れ、
 初秋の候が最大の危機ではあるが、実際に来る公算はそれほど高くないと判断していた。
 ソ連を仲介とする終戦工作に期待を抱いていた中央同様、関東軍も完全な奇襲を受け
 対応は後手後手となったのである。

 
 ソ連の対日戦準備

 独ソ戦線は、1943(昭和18年)8月の反攻により完全に攻守ところを変え、
 ソ連は全線を挙げて総追撃に移行、ソ連屈服・北進は全く望み得ない状況となった。

 スターリンはハル米国務長官に対し、ドイツ降伏後ソ連は日本との戦争に参加すると初めて明確に通告、
 続く11月28日のテヘラン会談の冒頭、ドイツ降伏後の対日参戦を公式に表明した。
 昭和20年2月11日 ヤルタで行われた米英ソ三国間の秘密協定により、ソ連は政治的要求の代償に
 ドイツ降伏2〜3ヶ月後の対日参戦を約束、ソ連軍参謀本部は対日作戦・戦略計画作成に着手した。
 死期の近づいたルーズベルトはソ連を対日戦に引き込むために安易にスターリンの要求を呑んだとされている。

 昭和20年5月 首都ベルリンは陥落、同盟国ドイツは降伏した。
 これにより単独不講和の義務も消滅し、日本政府は対米英和平実現の有効な手段として
 ソ連仲介に最後の希望を託し7月13日 近衛元首相を特使として派遣する旨をソ連に申し入れるが、
 ソ連はこれに対し拒否も応諾もせず回答を引き延ばした。
 一方ソ連の対日攻撃開始時機は、8月20日〜25日と予定されていたが、直前になって8月9日に繰り上げられた。
 日本の急激な戦力低下、米による原爆投下、ポツダム宣言などにより日本が降伏する前に参戦することで
 ヤルタ協定に規定した政治的要求の実現を図ったものと思われる。

 ソ連側は関東軍の戦力をかなり過大評価し、国境地帯での強力な抵抗を予期していた。
 そのためソ連は対日攻勢のために昭和20年5月から本格的な兵力集中を実施していたのである。

 
 彼我戦力の概要

 「関東軍特殊演習(関特演)」以降、対ソ武力行使企図は中止されたものの、動員計画のほとんどが実行された。
 関東軍司令部は平時から総司令部と呼称することになり、第1、第2方面軍司令部が新設され、
 昭和17年9月には戦力はピークを迎えた。

師団14、戦車師団2、戦車旅団1、騎兵旅団1、国境守備隊13、独立守備隊9
独立砲兵聯隊19、独立砲兵大隊14

兵員約65万、戦車675両、装甲車155両、飛行機750機

 最も充実したこの時期の関東軍は、極東ソ連軍に対し、北辺の安固を期し得る態勢に近づいたと考えられた。
 (実際の当時の極東ソ連軍は、師団29、戦車旅団20などを基幹とする
  兵員145万、戦車2589両で、我が軍よりも相当優勢であった。)

 昭和19年2月に入ると関東軍から師団その他の戦闘部隊の抽出が続いた。
 昭和20年になると日本本土と南朝鮮の防衛が最重要となり、3月末までに最後の在来師団全部と
 新設師団3個軍直轄部隊多数が抽出され兵力は最低に落ち込んだ。
 そのため関東軍は作戦計画を変更、国境地帯から抵抗陣地を後退させて正面を緊縮させるに至った。
 また7月以降いわゆる根こそぎ動員によって8個師団その他を新設し、対ソ戦時の関東軍は

師団24、戦車旅団2、独立混成旅団9、国境守備隊1 等を基幹とする
兵員約75万、火砲約1000門、戦車約200両、飛行機200機程度であった。

 見かけ上は75万の大軍で「関特演」時と同勢力であったが、
 部隊単位数はあっても装備は極めて寡弱、訓練も半数はゼロという兵団が多かった。

 特に根こそぎ動員による新設兵団(師団8、混成旅団7、戦車旅団1)は、
 対ソ開戦直前に編成が概了したばかりであり、兵員の多くは部隊に到着途中の状態で
 外形のみの存在に等しく、戦力は物心両面ともに極めて低位であった。
 たとえば第44軍の第63、第117師団の火砲は、両師団併せて山砲18門のみ。
 第128師団は定員23000名が実在14000名。第1方面軍隷下部隊の速射砲は皆無に近く
 重機関銃は定数の二分の一という状態で、銃剣は約10万本、野砲は400門不足していた。
 加えて関東軍による作戦準備の大部分は未着手の有様で、
 「なんらの誇張もない案山子的存在」という状況であった。

 一方極東ソ連軍は、

狙撃師団70、機械化師団2、騎兵師団6、戦車師団2、戦車旅団40 等を基幹とする
兵員約174万、火砲約30000門、戦車5300両、飛行機5200機

 独ソ戦開戦時にソ連に進攻したドイツ軍よりも兵力は少ないものの
 戦車・飛行機など質・量ともにはるかに上回る大兵力であった。その上欧州戦線で経験を積み
 装備も充実しており、関東軍との戦力差は表面上の数字の何倍にも相当すると思われた。

 
         対ソ戦2 満州の防衛戦   


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