満州の対ソ戦

 モスクワ時間8月8日1700(日本時間2300)、モロトフ外相は佐藤駐ソ大使に宣戦を通告、
 日本政府への連絡は自由であると述べたが佐藤大使からの報告電は東京には届かなかった。
 8月9日 0000から事実上完全無警告の奇襲攻撃が、中立条約締結国に向かって開始されたのである。
 

 ソ連軍進攻開始

ソ連軍 満州・北鮮侵攻経過  8月9日 0100 第5軍司令部からの緊急電話によって
 ソ連軍の攻撃開始の報告を受けた関東軍総司令部は
 各方面からの情報を総合して、
 ソ連が全面攻撃を開始したことが明らかになった。
 そして午前6時頃までに
 「作戦計画に基づき侵入し来る敵を撃破」の命令を下達した。

 一方大本営は、モスクワ放送傍受と関東軍の報告を受け
 ソ連の宣戦を知り、「全面的対ソ作戦の発動準備」を命令した。

 そのころ政府・統帥部はポツダム宣言受諾問題に忙殺されており、
 ソ連参戦の対応までは手が廻らない状況であった。
 とはいえ全面攻撃を行っているソ連に対し、停戦までは防衛作戦を
 行わねばならず、大本営は8月10日付「対ソ全面作戦の開始」の
 大陸命を下達した。
 これにより関東軍の任務は「皇土朝鮮の保衛」−
 実質的な満州放棄に後退したのである。

 関東軍の決意は「敵侵入企図の破砕」であり、
 成否は問わず断固として敵に立ち向かうことを明示した。
 なお、かねての計画に従って関東軍総司令部は新京から満鮮国境付近の通化に移動、
 満州国皇帝溥儀以下も大栗子に遷都した。

 
 居留民後退の問題

 当時満州の在留邦人は約155万人であった。
 そのうち約27万の開拓団関係者の多くは辺境地区に、その他一般邦人は都市部に在住していた。
 関東軍が持久守勢に転移して以来、居留民対策は幾度となく問題になったものの
 決定的措置がとられないうちにソ連参戦に直面することとなった。
 これは、「来たらざるを頼む」という希望的心理(これは戦術的・戦略的にも大きく影響を与えた)と、
 極めて多数に及ぶ在外居留民が直接戦乱の渦中に入る体験を持たなかったこと、
 防衛企図を秘匿せんとする思想、などが大きな原因であった。

 それでも9日には在留邦人の後送に着手し一般邦人を先に送り出そうとしたが、
 既に生活拠点を有する民間人は直ちに乗車などできない状況にあり、
 満州は内地よりも安全と考えられていたことも手伝って遅々として進まなかった。
 一刻の猶予もない状況下ではやむを得ず、緊急集合が容易な軍人・軍属の家族を主体に一番列車に乗せ、
 10日 0140には新京駅を出発した。
 だがこのことは後に、関東軍は軍人家族を最初に後退させた、として非難されることとなった。

 
 東部方面(第1方面軍)の戦闘

 第1方面軍(喜多誠一大将)が防衛する東部正面に対して、ソ連第1極東方面軍と第2極東方面軍主力が進攻した。
 牡丹江以北約600キロに第5軍(清水規矩中将)、南部に第3軍(村上啓作中将)を配置
 日本軍10個師団、独立混成旅団、国境守備隊、機動旅団各1個に対し、
 ソ連軍は35個師団、17個戦車・機械化旅団基幹であった。

 東部正面最大都市、牡丹江にソ連軍主力が向かうものと正しく判断した清水司令官は、
 第124師団、その後方に第126、第135師団を配置、全力を集中してソ連軍侵攻を阻止するよう処置した。
 穆稜を守備する第124師団(椎名正健中将)の一部は12日に突破されたが、
 後続のソ連軍部隊と激戦を続け、肉薄攻撃などの必死の攻撃を展開、
 第126、第135師団主力とともに15日夕までソ連軍の侵攻を阻止し、
 この間に牡丹江在留邦人約6万人の後退を完了することができた。
 牡丹江東側陣地の防御が限界に達した第5軍は、17日までに60キロ西方に後退、そこで停戦命令を受けた。

 南部の第3軍は、一部の国境配置部隊のほか主力は後方配置していた。
 一方この正面に進攻したソ連軍第25軍は、北鮮の港湾と満州との連絡遮断を目的としていた。
 羅子溝の第128師団(水原義重中将)、琿春の第112師団(中村次喜蔵中将)は其々予定の陣地で
 激戦を展開、多数の死傷者を出しながら停戦までソ連軍大兵力を阻止した。
 広い地域に分散孤立した状態で攻撃を受けた第3軍はよく決死敢闘したが停戦時の17日には
 ソ連軍が第2線陣地に迫っていた。
 12日から13日にかけて、ソ連軍は海路から北鮮の雄基と羅南に上陸してきた。
 日本軍は総反撃して上陸したソ連軍を分断、水際まで追い詰めたが
 15日には新たにソ連第13海兵旅団が上陸、北方から狙撃師団が接近したので決戦を断念、
 防御に転じた時に停戦命令を受領した。

 
 虎頭陣地の戦闘

 昭和13年春に概成した虎頭陣地は、正面8キロ縦深6キロにわたり1トン爆弾にも耐えうるように
 3Mのコンクリートで固められた周囲の丘陵地帯を連携した地下要塞で、
 関東軍の誇る国境要塞中1,2をあらそう堅塁であった。
 本来なら歩兵12個中隊、砲兵14個中隊で守備すべき陣地に、
 歩兵4個中隊、砲兵2個中隊の1400名が守備し、兵力が抽出された後でも、
 40センチ榴弾砲1、30・24センチ榴弾砲各2、15センチ加農砲6ほか多数を有した。
 かつてあった15個の国境守備隊の中で残された唯一の部隊であり、兵の素質は良好であった。

 不幸にして守備隊長西脇大佐は出張中で砲兵隊長大木正大尉が代理として全軍の指揮を執った。
 しかし砲兵兵力が不足の上に大木大尉が全般指揮に忙殺されて重砲の集中運用は円滑さを欠いた。
 陸軍最大口径を誇った40榴は当初から放棄、30榴は11日、24榴は15日
 敵の砲爆撃により射撃不能に陥り、15加も22日までに5門喪失した。
 完全包囲下の中で守備隊は主として夜間斬り込み、肉薄攻撃を反復敢行、
 8月26日に至り避難民を含めほとんど全員が壮烈なる戦死を遂げた。
 陣地にあった約1900名(含居留民)中、内地に帰還し得た者、わずかに53名であった。

 
 勝鬨陣地の戦闘

 東寧も関東軍の対ソ作戦の基点として広く知られていた。その中核たる元第1国境守備隊陣地である。
 勝鬨陣地を守備したのは独立歩兵第783大隊、東寧重砲兵聯隊第1中隊を基幹とする900名であった。
 守備隊長斎藤俊治大尉は、24センチ榴弾砲2門を中心に歩砲協力による抵抗を続けた。
 ソ連軍の激しい砲爆撃と地上攻撃に耐え、15日の玉音放送は謀略なりとして依然として抗戦を継続していた。
 ソ連軍側の要請で第3軍参謀河野中佐が陣地に入って停戦命令を伝え、停戦に至ったのは26日である。

 
 北及び北西方面(第4軍)の戦闘

 北部・北西正面を担任したのは第4軍(上村幹男中将)である。
 第123師団(北沢貞次郎中将)、独混第135旅団(浜田十之助少将)の守備する北部正面には、
 第2極東方面軍の第2赤衛軍が11日から攻撃を開始した。
 黒龍江岸に配置した監視・警備の遠隔地の部隊は原隊に復帰できず、開拓団など在留邦人を含めた
 困難な後退の間に多くの犠牲を生じた。
 ソ連軍は猛攻を加えつつ我が主陣地を迂回南下する作戦をとったが、我が守備隊は主要陣地を確保し
 戦力を温存したまま停戦を迎えた。

 第119師団(塩沢清宣中将)とその前方に位置する独混第80旅団(野村登亀江少将)の守備する
 ハイラル北西には、進攻ソ連軍中最強のザバイカル方面軍の最北兵団・第36軍が進攻した。
 9日早朝急襲を受けたこの正面の国境監視哨等は玉砕したものが多く、
 国境方面の在留邦人も避難の時間なく相当の犠牲者を生じた。
 ハイラル守備部隊は、圧倒的なソ連軍の完全包囲下に陣地の大部分を確保して健闘し、
 18日に停戦するまで敵第36軍の大勢力を凌いだ。
 第119師団は停戦するまでソ連軍の突破を阻止し、その結果邦人主力のハイラル在住者は
 ソ連軍に後方を遮断される前に後退することができたのである。

 
 西部方面(第3方面軍)の戦闘

 第3方面軍(後宮淳大将)が防衛する西部正面及び中・南満州に対して、ザバイカル方面軍が進攻した。
 日本軍 9個師団、3個独混旅団、2個独立戦車旅団基幹に対し、
 ソ連軍は狙撃28個、騎兵5個、戦車2個、自動車化2個各師団、戦車、機械化旅団等18個という大兵力であった。

 ソ連進攻当時国境線に布陣していたのは第107師団で、ソ連第39軍の猛攻を一手に引き受けることとなった。
 師団主力が迎撃態勢をとっていた最中、第44軍から、新京付近に後退せよとの命令を受け、
 12日から撤退を開始するも既に退路は遮断されていた。
 ソ連軍に包囲された第107師団は北部の山岳地帯で持久戦闘を展開、終戦を知ることもなく包囲下で健闘を続け、
 8月25日からは南下した第221狙撃師団と遭遇、このソ連軍を撃退した。
 関東軍参謀2名の命令により停戦したのは29日のことであった。
 関東軍内で師団主力をもって戦った最後の戦いであり、ソ連軍に一矢報いた最後の戦闘であった。

 一方方面軍主力は、最初から国境のはるか後方にあり、開戦後は新京−奉天地区に兵力を集中し
 この方面でソ連軍を迎撃する準備をしていたため、本格的な交戦は行われなかった。
 逆にソ連軍から見ると日本軍の抵抗を受けることなく順調に前進できた。
 ソ連軍の機甲部隊に対して第2航空軍(原田宇一郎中将)がひとり立ち向かい12日からは連日攻撃に向かった。
 攻撃機の中には全弾打ち尽くした後、敵戦車群に体当たり攻撃を行ったものは相当数に上った。


 北支方面軍隷下の戦闘

 内蒙古に侵入したソ連機械化騎兵旅団に対し、駐満軍(根本博中将 のち北支方面軍司令官兼任)は、
 張家口に終結しつつあった邦人約3万人の引き揚げを8月20日から開始することにしていた。
 同日、張家口陣地に接近したソ連軍に、引き揚げ終了まで猶予を願ったが聞き入れられず、
 守備する独立混成第2旅団は、根本司令官の意図を体し、邦人引き揚げを援護するため抗戦を続行した。

 この戦闘で同旅団は約70名の犠牲者を出すも4万人近い邦人は全員無事に引き揚げを完了した。

 
         対ソ戦3 樺太・千島の防衛戦   


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