マーシャル諸島の作戦/クェゼリン島・ルオット・ナムル島

 マーシャル諸島の防衛

 マーシャル諸島は、幅約200カイリ、長さ500カイリに渡り北西から南東の方向へ延びる2列の環礁群から成っていた。
 西の列島をラリック列島、東をラタック列島と呼ばれ、環礁は約30群で全島すべて珊瑚礁からでき
 土地は平坦で多くは1.5mから6mに過ぎない。
 住民は開戦当時日本人が約500人、カナカ族が約1万人と少数の外国人が居住していた。

 上記のようにマーシャル諸島各島は地積が狭い上に平坦で、しかも地下水が浅く防備施設の構築は極めて困難であった。
 これら防備上の致命的欠陥からマーシャル諸島の戦術的価値については従来から多くの異論があった。
 しかし、同諸島に有力な地上兵力を配して反撃拠点とし、併せて基地航空兵力を配置、
 海上戦力と相まって積極作戦を実施する場合、敵艦隊に対する態勢上の戦略的優位を占め、
 地形的欠陥を補って余りあるものと考えられた。
 ところが実際には船舶の不足やギルバート諸島喪失により敵潜水艦や航空機が活発になり、
 鋼材・セメント等資材の輸送が困難となり、飛行場以外満足な防備施設は構築することができなかった。

 
 米軍の進攻準備とクェゼリン島の防衛

 米統合参謀本部は昭和18年7月20日 ニミッツ太平洋艦隊長官に対し、
 昭和19年(1944)1月 マーシャル諸島占領の準備を下令していた。
 ニミッツ長官による攻略作戦は当初バンクレイト作戦と呼称したが、フリントロック(石錠)作戦と改称された。
 12月4日 米機動部隊によるクェゼリン偵察の結果、同島に70%完成の爆撃機用滑走路を発見、
 同島をまず攻略することとされた。
 攻略計画では、もしクェゼリンが予想外に頑強な抵抗がなければ続けてブラウン環礁を攻略する予定であった。

 クェゼリン環礁はマーシャル諸島の北西に位置する世界最大の環礁で、
 北西から南東に伸びる長辺は66カイリ、最大幅20カイリ、90余の島々からなり、
 どの島も椰子の木の茂る平らな砂島である。
 そのうち軍事的に利用できる面積があるのは南東橋のクエゼリン島と北端のルオット・ナムル両島のほか、
 西端のエバデンとこれらに隣接する小島だけであった。

 クェゼリン島は、マーシャル群島方面の海上及び陸上防備の中枢基地として整備され、
 開戦前から海軍はここに第6根拠地司令部を置いた。

 文字通りマーシャル方面の中心基地であった同島の米軍来攻時の守備兵力は以下のとおり。

 第6根拠地隊 本隊
 第61警備隊
 第6通信隊
 第6潜水艦基地隊
 海軍軍人 計

 海上機動第1旅団第2大隊基幹

 陸海軍 計 (除軍属)

    80名
  1500名
   400名
   200名 他
 約2700名

 約1020名

 約3900名

    第6根拠地隊 司令官
 第61警備隊 司令
 海機第1旅団 第2大隊長
 海機第1旅団 参謀(来島中)
 秋山門造 少将
 山形政二 大佐
 阿蘇太郎吉 大佐
 伊藤豊臣 少佐

 クエゼリン作戦経過 ギルバート諸島での戦訓に鑑み、
米軍が環礁内から上陸する場合にも備え、
内側海岸に戦車壕、トーチカ、機銃陣地等を
急速に構築したが、防御施設はルオットと同様
縦深を欠き、島の内部には陣地はほとんどなかった。

戦闘のため利用できる数百の建物があったが
防備はタラワ島に比べ薄弱で、海岸の障害物はほとんどなく、
多くの防御施設は未完の状態であった。

陸軍部隊が到着後は
概ね本島を南北の2防備地区に区分した。

南地区は阿蘇大佐指揮の陸軍部隊、気象・軍需・輸送の各関係者、
北地区は山形大佐の指揮する全海軍部隊であった。

  クェゼリン島の作戦経過

1月31日 0700 空襲とともに戦艦3、駆逐艦5による艦砲射撃を受け、守備隊は一部を除き暗号書を焼却した。
1330 秋山司令官は、米軍は今夕から明未明にわたり環礁内に侵入し上陸を企図していると判断
海上部隊に之を襲撃せよと発令した。
この日の砲爆撃で全砲台と防御陣地の大部が破壊され、所在人員の1/5が死傷した。
1820 環礁外視界内には戦艦5、巡洋5、駆逐10、輸送船14が望見された。
米軍はこの日、クェゼリン島に連なる離島に上陸、最も近いエヌブ島に48門の火砲を揚陸し
射撃準備を完了した。
2月 1日 0630艦船の支援射撃を受けながら西海岸に上陸を開始した。
上陸した米軍は、砲兵と艦砲の砲撃支援下に戦車を先頭に前進を開始した。
我が守備隊は米軍上陸2時間後から断固として組織的な抵抗を始めたので、
米軍は1200頃まで500Mほど前進したに過ぎなかった。
秋山司令官は「各隊は一兵となるまで陣地を固守し本島を死守すべし」と命令し
2000 味方前線部隊視察のため司令部壕を出た瞬間、艦砲弾の破片により壮烈なる戦死を遂げた。
南地区指揮官阿蘇大佐は、全兵力を指揮して夜襲を決行、いったん米軍を水際付近まで撃退したが
支援艦艇からと隣接するエヌブ島からの集中射撃により大損害を生じ、攻撃は挫折した。
2月 2日 飛行場東側地区の陣地をめぐって彼我の激闘が続いた。
日本軍は対戦車爆薬をもって米軍戦車に体当たりし、或る5名の将校は軍刀を振るって戦車を攻撃し、
壮烈な戦死を遂げた。
深夜から夜明けまで日本軍守備隊は残存兵力をもって逆襲を繰り返したが、死傷者は続出した。
2月 3日 1000 海軍先任参謀の命令により全員死を決し、海軍首脳部は司令部作戦防空壕で自決した。
元浅香宮正彦王で臣籍降下された侯爵・音羽正彦海軍大尉も壮烈なる戦死を遂げた。
残った陸海軍将兵は自決の銃声を聞きながら阿蘇大佐の指揮をもって正面の米軍に突入したが、
機銃掃射と砲火のため半数は瞬時に戦死、先頭を突撃した阿蘇大佐もまた戦死を遂げた。
この日は終日彼我入り乱れた混戦が続き、米軍は艦砲も砲兵隊も支援の方法がなかった。
日本軍は臼砲の白燐弾を発射し、少なくとも2回の組織的逆襲を試みたが米軍に阻止された。
2月 4日 1200 米軍は島の北部にある大桟橋まで前進した。
日本軍は途中東側海岸で頑強に抵抗したがもはや米軍を阻止する力を残していなかった。
1230 米軍は島の北岸に到着、米第7師団長コーレット少将は組織的抵抗が終了したことを宣言した。

 戦果・損害

  日本軍 米 軍
兵力 3900 21342
戦死者 約3700 177
戦傷者   1037
我が軍の捕虜はクェゼリン全体で264名 ほとんどが設営労務者であった。

米軍の死傷者は比較的少数に留まったが、
欧州イタリア戦線における「モンテカッシーノの戦闘」
に匹敵する激戦と称された。
特筆すべきは、海に秋山・陸に阿蘇という
陸海軍の見事な連携ぶりである。
秋山司令官の戦死後における阿蘇大佐以下陸軍部隊の戦闘は
見事なものであった。

 ルオット・ナムル島の防備

 ルオット島はクェゼリン環礁の北岸にあり、ナムル島(ニムル島)とルオット島(ロイ島)は
 中間に連なるエニリギリック島を介して長さ2300Mの人口の堤防で連結されていた。
 ルオット島は全島ほとんど飛行場で、ナムル島には兵舎他の施設が整然と並び人目を引く風景であった。

 航空の中心基地として第24航空戦隊司令部(司令官 山田道行少将)が所在していたが、
 その位置から対岸のクエゼリン同様米軍進攻に対しては比較的安全と考えられていた。
 従って下記のように地上戦闘兵力としてはきわめて貧弱な状態であった。
 米軍の進攻が予想される時期となり防御陣地の強化促進に努めたが、
 主体が航空関係部隊である上に日時・資材の不足、地形上の制約もあり、
 十分な築城はできなかった。
 さらに水際障害物や戦車障害物もわずかしかできていなかった。

 第61警備隊 ルオット分遣隊
 第24航空戦隊
 第4施設派遣隊
 南東航空廠派遣隊
 軍需部関係

 総 計

400名
1500名
約800名
約200名
約20名

2900名 (軍属含む)

 
  ルオット・ナムル島の作戦経過

2月 1日 1月30日から始まった猛烈な航空攻撃と艦砲射撃により、島内に貯蔵してあった
魚雷、爆弾、燃料など大部分が焼失し、31日 0630にはルオットからの通信は
途絶してしまった。
米軍は同島占領後、ルオット飛行場を使用する計画であったので、
砲爆撃は主としてナムル島に集中した。
上陸前の砲爆撃で島内は徹底的に破壊されてほとんど人影もなく、
美しかった椰子林も焼け爛れていた。
2月 2日 0830 米軍はルオットとナムルの内海側海岸に上陸した。
ルオット島守備隊は防御陣地の不完全と相まって上陸前の砲爆撃で戦死者が続出し、
米軍上陸までに大部分が死傷するという状態であった。
生き残った約300名は
壕や滑走路の排水溝を利用して前進する米軍を射撃した。
日本軍が構築した陣地は、大部分が外海への海岸に準備してあったため
組織ある防御戦闘の役にはたたなかった。

1500 海兵隊はM4戦車を先頭に北岸に達し、ルオットの戦闘は終結した。
一方ナムル島では最大の激戦が島の西部で起こっていた。日本軍守備隊は激しく抵抗した。
1630 米海兵隊は島の北岸から250Mの線に停止、翌朝からの攻撃再開を準備した。
守備隊はこの夜数回に渡って夜襲を企図し、
0400には小部隊に分かれて最後の突撃を敢行した。

2月 3日 1200 米軍は島の北部にある大桟橋まで前進した。
日本軍は途中東側海岸で頑強に抵抗したがもはや米軍を阻止する力を残していなかった。
1230 米軍は島の北岸に到着、米第7師団長コーレット少将は組織的抵抗が終了したことを宣言した。

2月12日 マーシャル来攻以来米軍に一矢報いるために、トラック基地から大型飛行艇による
ルオット夜間攻撃を実施した。
我が6機の飛行艇は深夜ルオット島を攻撃、補給物資の8割と米兵死傷235名の大戦果を挙げ、
全機無事帰還した。
米軍によると、真珠湾奇襲以来地上目標としては最大の被害である、とのことだった。

 戦果・損害

  日本軍 米 軍
兵力 1900 約20000
戦死者 約1900 約100
戦傷者   約400

 我が軍の捕虜は戦闘員3名、非戦闘員(朝鮮人軍属)8名。


 エビゼ島などの小離島の作戦経過

 2月1日早朝 ルオット島南西のエヌビーン島とミル島に米軍は上陸し、
 同日午後 10センチ榴弾砲を揚陸し陣地占領した。
 同島の守備兵力は20数名であり約30分ほどで全滅したのであった。
 米軍は同島占領のあと、エヌメネット、エヌビール両島に上陸してこれを占領した。
 エヌビール島は通信中枢基地で、守備兵は戦闘の後戦死34名を残してナムル島に撤退した。
 これら小離島の2月1日の作戦で、米軍の戦死または行方不明24名、負傷40名であった。

 エビゼ島は長さ1500Mの平らな小島で、海軍はここに水上機基地をつくり、
 開戦以来哨戒・連絡の基地となっていた。
 米軍来攻時、第952航空隊司令・堀家義一中佐以下の航空隊員470名と軍属約300名程がいた。
 2月4日 米上陸部隊・米第17連隊は支援射撃と併せて島の南部に上陸した。
 守備隊は防空壕や塹壕から頑強に抵抗した。 同夜から夜陰に乗じて反撃し、
 5日0100には組織的逆襲を試み、一時は米軍の占領したところを奪回した。
 しかし衆寡敵せず、1000頃には完全に占領された。

 米軍はエビゼ島の占領に続いて、ロイ(守備兵23名)、グググエ(200名)、ビゲー(100名)
 を次々占領、
 2月6日ころにはクエゼリン環礁を完全に占領した。

 米軍のマーシャル諸島上陸部隊は約20100名で、日本軍守備隊の約4倍に達していた。

 
 作戦の終末

 2月6日朝米国はラジオニュースで、マーシャル諸島各島の占領を放送した。
 大本営は、第4艦隊司令長官の詳細な報告を受け、
 2月25日 クェゼリン島・ルオット・ナムル島の玉砕を発表した。
 米軍はこの作戦でタラワ守備隊とほぼ同数の日本軍を撃滅したが、損害は死傷1780名で、
 タラワ損害の約1/2に過ぎなかった。これは米軍のタラワ戦訓に基づく周到な計画準備、
 圧倒的に優勢な空海戦力と地上兵力、外海や礁湖に準備していた日本軍の裏をかく戦法が
 功奏したためであった。

 なお米軍は、日本軍が当初から放置していたクェゼリンの南東210カイリにある
 メジュロ環礁を無血占領した。

         ブラウン環礁の作戦/エンチャビ エニウェトク メリレン   


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