中部太平洋艦隊司令長官 | 南雲忠一 中将 兵36期 | 第5艦隊司令長官 | スプルーアンス 大将 |
同 参謀長 | 矢野英雄 少将 兵43期 | 第51任務部隊 | ターナー 中将 |
第5根拠地隊司令官 | 辻村武久 少将 兵42期 | 第5海兵軍団長 | HMスミス 中将 |
第55警備隊司令 | 高島三治 大佐 兵45期 | 第2海兵師団 | ワトソン 少将 |
第6艦隊司令長官 | 高木武雄 中将 兵38期 | 第4海兵師団 | シュミット 少将 |
同 首席参謀 | 堀之内美義 大佐 兵50期 | 第27歩兵師団 | ラルフ・スミス 少将 |
第1連合通信隊司令官 | 伊藤安之進 少将 兵42期 | ||
第3水雷戦隊司令官 | 中川 浩 少将 兵42期 | ||
南東方面航空廠廠長 | 佐藤源蔵 中将 兵40期 | ||
第31軍参謀長 | 井桁敬二 少将 士27期 | ||
第43師団長 | 斎藤義次 中将 士24期 | ||
同 参謀長 | 鈴木卓爾 大佐 士34期 | ||
独立混成第47旅団長 | 岡 芳郎 大佐 士25期 | ||
重砲兵学校長 | 加嶋三郎 少将 士25期 | ||
第8方面軍参謀副長 | 公平匡武 少将 士31期 |
我が陸海の高級指揮官があまりにも多く、命令が入り乱れ、
陸軍部隊は陸軍指揮官の命令、海軍部隊は海軍の指揮官命令によってしか動かないという、
宿命的な禍根が重大な影響を及ぼした。 なおサイパン出張中に敵の来攻を受け、帰還できなかった者が
加島、公平両少将以下多数あり、戦死・負傷した指揮者の後任として補された。
しかしほとんど部隊を把握できない状況であった。
なお小畑軍司令官は前述のようにヤップ島に視察中であった。米軍上陸時は制空権は敵手にあり
サイパン帰還は不可能であった。そこで各視察同行の部長をパラオに残し、グアムまで進出し
グアム島で全般の指揮を執る事になり、サイパンでは井桁軍参謀長が軍司令官の指揮を代行したのである。
サイパン島における日本軍の作戦準備
サイパン島に上陸した諸隊は鋭意陣地の構築と訓練に努めた。
しかしその準備期間が短く、−43師団の場合約20日間−その上各種部隊が無計画に逐次到着し、
他島への転進や守備地域の交代 、部隊の改編等のため守備態勢も整わず、配備変更も数次にわたって行われた。
このため防御工事の進捗は遅延し、歩兵陣地は待機位置のみ軽掩蓋で射撃位置は立射散兵壕、
重火器は軽掩蓋、砲兵陣地も大部分は露天掩体程度で、水際障害物や機雷もほとんど設備されていなかった。
米軍上陸時には、各種資材が山積されれており、作戦準備もまた不十分であり、
すべてが俗に「百日遅れていた」のであった。
サイパン島の作戦経過
6月11日 |
米軍による上陸準備砲爆撃開始 1300頃からサイパン、テニアン、ロタ、グァムに対して一斉に空襲開始 マリアナ方面には150機余の海軍航空戦力が待機中であったが、これによってその大部分を失った。 |
6月13日 |
米艦隊艦砲射撃開始 戦艦8、巡洋艦2、駆逐艦22 翌14日には参加艦艇増加 |
6月15日 |
0715 米軍上陸開始 我が砲兵 前進発起点に向かって射撃開始。特に15榴大隊は連日の砲爆撃にもかかわらず 1門の損傷もなく、健在した全火砲をもって突進する上陸用舟艇を迎え撃ち、敵軍を大混乱に陥れた。 艦砲射撃によって守備隊の無力化を信じていた米軍は、この反撃に混乱に陥った。 第2海兵師団の4人の大隊長は負傷し、千数百名が戦列から消えていった。 加えて水際逆襲が直ちに実施されたが、戦車第4中隊、河村大隊等はほとんど全滅、 朝からの戦闘で我が守備隊兵力は激減、独混47旅団長・岡大佐は戦死した。
同夜半 夜襲を敢行し敵撃滅を企図した。だが昼間の激闘と通信連絡の混乱によって |
6月16日 |
0200 各方面より夜襲開始 米軍は上陸支援艦艇による照明弾によって日本軍を照明し、艦砲の一斉射撃と戦車で応戦 日本軍の攻撃は逐次弱まり、約700名の戦死者を残して夜明けとともに後退した。 師団予備の2個大隊はほとんど全滅、海軍の横須賀第1陸戦隊も唐島辰男中佐以下大部分が戦死した。
夜明けとともに米軍は砲爆撃を続行しながら輸送船35隻、LST40隻、上陸用舟艇多数で揚陸を行い、 |
6月17日 |
0230 敵上陸第2夜の夜襲の主力は、歩136聯隊、歩40聯隊第3大隊、戦車第9聯隊等であった。 五島戦車聯隊長と鈴木師団参謀長との間で、戦車の用兵に関して論争が行われた。 結局鈴木参謀長の意見に基づき、戦車は数名づつの歩兵を随伴して攻撃することとなり、 オレアイ無線局方面へと進撃した。 夜襲部隊は敵の指揮所と師団砲兵陣地の前方約500Mまで近泊したが、 敵陣は良く構築され日本軍の夜襲は奇襲という要因を欠き、この日揚陸したバズーカ砲のため 我が軍の反撃は目的を達成することができなかった。 歩第136聯隊は兵力の大部を失い、約1個大隊に減少した。歩18聯隊第1大隊はほとんど全滅、 戦車第9聯隊は戦車の大部を失い、五島連隊長以下中隊長の大部が戦死した。 また砲兵部隊も夕刻までに火砲の大部が破壊され、爾後は徒歩部隊を編成し歩兵とともに戦闘した。
米軍の戦力は戦前の予想に反し極めて強大で、それは戦術や防御方式で解決できる問題ではなかった。 |
6月18日 |
1000 敵はアスリート飛行場を占領、酸素工場、発電所、ガソリン貯蔵庫などが敵手にわたった。 第31軍井桁参謀長は、軍の戦線を整理しタポチョ山嶺まで後退、新たに防御線を敷くことを下令した。 米軍はこの山嶺一帯に米軍は連日砲爆撃を行う。左翼に第2海兵師団、右翼に第4海兵師団、 中央に第27師団を布陣させ、じりじり前進していった。 |
6月22日 |
このころの残存兵力は、第43師団約9000、その他約6000、軍砲兵なし、 山砲、工兵の集成徒歩部隊約1個中隊 なお6月19日敢行された海軍の「あ号作戦」(マリアナ沖海戦)は、米機動部隊と潜水艦のため 大打撃を受け、帝国海軍にとって致命的な失敗となった。 |
6月24日 |
大本営はマリアナ沖海戦の結果から、サイパン放棄を決定。 だが、タポチョ山北東側の峡谷(死の谷 Death-Valley)では、我が軍の勇戦により米軍の攻撃は ことごとく失敗していた。米軍の第27師団長、ラルフ・スミス少将はその責を負って更迭させられ、 ハワイに送還されるに至った。(スミスVSスミス事件) |
6月25日 |
残存兵力は歩兵部隊1500、砲なし、戦車僅か3両であった。 午前中タポチョ山北側の新指揮所で、第31軍司令部、第43師団司令部、艦隊司令部三者の 合同会議が行われた。 最後の複廓陣地が決定、タポチョ山の線から後退するよう計画された。 |
6月26日 |
夕刻 米軍はタポチョ山を占領、島北部へと前進をつづけた。 我が軍は、昼間圧倒的な米軍陸海空の猛攻によって陣地を奪取されると、夜間、挺身奇襲攻撃で応酬 局部的には相当の戦果を収めたが、戦局の大勢に影響を与えるまでには至らなかった。 |
6月29日 |
合同戦闘指揮所は最後の位置地獄谷へ移動し、兵力を再編成して最後の戦闘を計画した。 歩第135聯隊長 鈴木大佐はこの頃戦死した。 |
7月 3日 |
中心街ガラパンが5日の市街戦を経て占領された。 |
7月 4日 |
前日、中心街ガラパンを占領した米軍は、最後の攻撃を開始。 我が軍は午前中辛うじて敵の前進を阻止していたが午後になって敵戦車がわが陣地内へ侵入、 戦線は錯綜し乱戦となった |
7月 5日 |
合同戦闘指揮所は、ガラパンへの最後の総攻撃を敢行を決定。大本営に訣別電を発信した。 |
7月 6日 |
艦隊司令長官南雲中将、第43師団長斎藤中将、第31軍参謀長井桁少将の3将軍は相次いで自決。 これと前後して辻村少将、辻北部支庁長なども相次いで自決した。 また各聯隊の軍旗を奉焼した。その夜は天に心あってか珍しく静かな夜であった。 夜半 鈴木師団参謀長、吉田参謀、平櫛参謀の3名が指揮、7日0300を期して最後の攻撃を開始した。 総員1500名〜3000名で将校、下士官はほとんどいなかった。 |
7月 7日 |
天明とともに敵火器は一斉に猛火を吐き、我が突撃部隊は次々倒れていったが、 鬼神の如く突き進む我が部隊は敵の砲兵陣地へと突入。既に日本軍捕虜から この日の総攻撃を知っていた米軍は警戒措置で迎え撃った。戦闘は午後まで続き、 敵砲兵の零距離射撃を受けてすべて斃れた。 このようにして我が軍の最後の玉砕攻勢は終結を告げた。 |
7月 9日 |
1515 米遠征軍ターナー司令官はサイパン島の占領を宣言した。 |
守備隊玉砕後、なお生き残った多数の将兵はタッポーチョ山付近を初め
山地、海岸などのほら穴や岩影に潜入し遊撃戦を続行した。
歩兵第18聯隊衛生隊長大場栄大尉の指揮する一群は、タッポーチョ山西側に、
歩兵第40聯隊第3大隊本部附田中徳輔中尉指揮の一群は、ハグマン半島海岸の洞窟に潜伏していた。
米軍の掃討のため次第に人員は減少し、終戦時の潜伏者は約70〜80名程度と推定された。
昭和20年12月1日 パガン島守備隊司令官 天羽少将の降伏命令により、大場大尉以下47名の生存者は
戦友の霊に3発の弔銃を捧げた後山を下った。このあとさらに25、6名の者が山中より収容された。
大本営の苦哀
陸海軍統帥部は、サイパン島確保の方策について逆上陸部隊も含め、万策を尽して連日検討を重ねた。
しかし現情勢下にては到底成算なく、遂に6月24日陸海総長は列立して、サイパン島奪回断念を上奏するに至った。
陛下は異例にも御裁可あらせられず、速やかに元帥会議を開きその結果を奉答するようにと仰せ出されたので
翌日元帥会議を開き、その結果各元帥から「現情勢にては断念するも巳むを得ないものと認めます」
との奉答をお受けになられて、始めて御裁可あらせられた。
サイパン失陥後の作戦と影響
サイパン島陥落は日本の戦争遂行の前途に大きな不安を投げかけるものであった。
B29による長距離爆撃は、それまで支那大陸を拠点として九州に来襲するものであったが、
マリアナ失墜によって同方面を基地として本格的な本土爆撃が可能となった。
また戦略的には、絶対国防圏の事実上の崩壊を意味し、対米主戦力である海軍戦力の崩壊によって
今後の作戦遂行はいよいよ困難の度を加えることが予想された。
戦争指導の見地からは、本土と南方資源地帯とが分断の危機にさらされ、
B29による本土空襲は我が国力・戦力の造成の大きな障害となるばかりでなく、
国民の士気に与える影響はさらに大きなものがあると予想された。
大本営は昭和19年7月18日1700 サイパン島守備隊玉砕を発表した。
同日 東條内閣は退陣、小磯・米内連立内閣が之に代わった。
これ以降、重臣の中にも和平の道を講じようとする動きが次第に活発化していったのである。
両軍戦力及び戦果・損害
陸軍 | 海軍 | 米陸上部隊 | 米海上支援 | |
総兵力 | 28518 | 15164 | 71034 | |
10cm以上 | 26 | 25 | 180 | 214 |
野・山砲 | 53 | 4 | 48 | |
速射砲 | 24 | 210 | ||
迫撃砲 | 84 | 297 | ||
高射砲 | 24 | 20 | 8 | 多数 |
戦車 | 39 | 10 | 150 | |
戦死者 | 29244 | 15000 | 3441 | |
戦傷者 | 11465 |
在留邦人約2万人のうち1万人弱が戦没したと推定される。
モリソン戦史による日本側捕虜数は1790名 うち軍人921名、抑留民間人は14560名にのぼった。