フィリピン沖海戦4

  エンガノ岬沖海戦/第1機動艦隊の戦闘

10月20日 1800  小沢艦隊 豊後水道出撃
10月24日 0600  予定地点に到達 索敵機10機発進
  1145  旗艦瑞鶴にZ旗を掲げ、攻撃隊76機(実動58機)発進
  1305  「瑞鳳」「千歳」「千代田」攻撃隊、グラマン戦闘機と空戦
 攻撃隊は敵空母発見できず3機のみ帰投
  1350  「瑞鶴」攻撃隊敵空母発見、正規空母と軽空母各1隻に命中弾
 (実際は米空母に損害なし) 攻撃後空母に帰投したものは1機もなく比島基地に帰投
  1515  松田少将指揮の航空戦艦「日向」「伊勢」以下は主隊から分離、南下して牽制行動開始
  1700  燃料不足の「桐」 高雄に向う
  1910  天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ の豊田長官からの電令着
10月25日 0700  松田少将の前衛部隊 本隊に合同
  0815  第1次空襲170機 「瑞鳳」直撃弾2、至近弾6、「瑞鶴」魚雷1、直撃弾3 通信不能
  0856  「秋月」沈没
  0937  「千歳」沈没 艦長岸良大佐以下468名戦死
  0958  第2次空襲36機 「伊勢」直撃弾1、至近弾8
  1016  「千代田」航行不能
  1054  小沢長官 「大淀」に旗艦変更
  1306  第3次空襲200機 「瑞鶴」魚雷7、直撃弾4命中
  1414  「瑞鶴」沈没 艦長貝塚少将以下843名戦死
  1647  小沢長官 陽動作戦の実質的終了を打電
  1655  米巡洋艦の攻撃を受け、「千代田」沈没 艦長城大佐以下全員戦死
  1722  第4次空襲85機 「伊勢」至近弾34、「日向」至近弾7、「大淀」至近弾4
  2041  敵巡洋艦隊の攻撃を受けつつある「初月」救援のため、夜戦を決意し南下
  2059  「初月」沈没 単艦で敵艦13隻と交戦 米軍の賞賛する勇戦敢闘であった。
  2300  「多摩」沈没 敵潜攻撃による 艦長山本大佐以下全員戦死 
  2345  夜戦を断念、北上して離脱
10月27日 1200  小沢艦隊 奄美大島に帰投

 
小沢艦隊作戦経過  この日の米軍延べ総攻撃機数は527機にのぼり、
 空襲によって空母4、駆逐艦1が撃沈された。
 (他に2隻が沈没)

 しかし練度が低く搭載機数が計116機に過ぎない
 我が機動部隊に対して、65隻・3つの空母群からなる
 ハルゼーの正規機動部隊の攻撃としては、
 栗田艦隊への空襲を上回る戦果とは言えなかった。

 今次作戦で12センチ噴進砲(対空ロケット弾)が
 始めて空母と戦艦2隻に搭載された。
 1基28発装填のものが6つ、計168門で
 弾着地点で炸裂、弾片は周囲に四散し
 高角砲よりも効果的であったとされている。

 事実、我が対空砲火は栗田艦隊と比較して、
 多数の敵機を撃墜しており、
 全滅を覚悟して出撃した「囮部隊」が、
 戦艦2、軽巡2、駆逐6の
 生存艦を擁して帰還できたことは
 「戦術的成功」であったともいえよう。

 
   囮作戦

 小沢艦隊は、「旺盛なる犠牲的精神により敵機動部隊を牽制誘引」して「敵上陸点に対する突入作戦の必成を記する」
 陽動(牽制)作戦を発動していた。
 すなわち小沢艦隊の主目的は、敵艦隊を発見することよりも敵艦隊に発見されることにあり、
 ハルゼーをレイテ湾からできるだけ北方に釣り上げようと懸命の努力を続けていた。

 一方のウィリアム・F・ハルゼー大将率いる米第3艦隊は、3つの空母群・65隻からなり、
 17隻の小沢艦隊を圧倒していた。
 24日の栗田艦隊に対する攻撃戦果を過大に評価しもはや脅威にはならないとの判断から、
 小沢艦隊に攻撃の矛先を向けていたのである。加えて栗田艦隊が一時西方に反転したことも影響していた。
 ハルゼーは猛牛(ブル)と渾名される熱狂的な性格であり、スプルアンスのような慎重な行動をとることはできなかった。
 指揮下であるリー中将からの、小沢艦隊は囮ではないか?という警告を無視し、艦隊全兵力をあげて
 小沢艦隊に突進する作戦を選んだのである。

 このように小沢長官の陽動作戦は成功しつつあったが、作戦成功を栗田艦隊に伝える数度の連絡電報は
 栗田艦隊には着電しないか、着電しても栗田長官の手元には何故か届かなかった。
 ハルゼーは囮の日本機動部隊を追い、栗田長官は幻の米機動部隊を追うこととなるのである。

         フィリピン沖海戦5/サマール島沖海戦 戦果と損害など   


inserted by FC2 system